かって浅草は芸能の聖地だった。浅草オペラもストリップも演芸場も映画もすべて浅草からうまれていった。その浅草という東京の下町の中心が、国際劇場、東洋一の大レビュー劇場だ。
国際劇場は観音様とともに浅草のシンボルとなり、東京踊り、を始め春、夏、秋の踊りは下町っ子を熱狂させた。笠置シヅ子の東京カルメンも、ピーターのデビュー・ショウもみなこの国際だった。その舞台から水之江滝子が生まれ、倍賞千恵子が生まれ、数々のスターが生まれた。
松竹少女歌劇と呼ばれたレビューの灯は、西の宝塚歌劇とともにこの国の少女レビューを牽引しつづけた。
時とともに、芸能の聖地は有楽町に移り、更に赤坂、六本木、渋谷、と目まぐるしく変わり、サンチャの
誕生をきっかけに町中に拡散し、ライブハウスや小劇場の時代へとかわっていった。
24年前、大松竹は共に生きてきた松竹少女歌劇SKDを棄てた。儲からなくなったのだ。棄てられた何十人かの生徒のなかから立ち上がったのが四人のスターだった。
千羽ちどり、高城美輝、明石薫、銀ひ乃で、それぞれのイニシャルからスタスSTASと名付け、松竹がドブに棄てたレビューの復興をめざした。10人ほどのレビューに魅せられた中堅若手もついていった。さらに生徒以外の巷の少女何十人かを組織化し、「スタス・レビュー」を旗揚げした。
当初は国際のイメージから脱しきれず、無駄な仕込みも多かったが、ここ数年舞台もすっきりとまとまり
STASなりの味がでて格段の進歩を遂げてきた。芸術祭賞やら松尾芸能賞と評価され喜びの成果に湧いた。
が残酷なのは歳月の流れ、かってのスターも還暦を迎える歳となり、自嘲ぎみに私たちもう年金レビューですから、と言わざるをえない状態になってきた。
浅草公会堂という劇場での公演は今年で打ち止めにするというが、この24年の稔りを後輩たちはどう受け継いでいくか、見守っていきたい。
STASレビュー 24年の足跡
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プロフィール
星野 和彦
Kazuhiko Hoshino
1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表
作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞
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