石渡潔という名前は戦後の日本にとって忘れてはいけない名前だとおもう。
美容業界の人にとっては、あたりまえに知っている名前かもしれないが、日本のヘア・デザインを世界にしらしめ、この国のヘア・スタイルにインターナショナルな基準をつぎ込み、ファッションの一部として認知させたパイオニアなのだ。
それまでの美容業界は女天下だった。美容師は女性のものと誰でもがあたりまえに信じていた。
旧社会から生まれたスターが山野愛子であり、名和好子であり、、山崎伊久江だった。デザイナーというより美容業界のボスに近く、全国に信者がいた。
しかし敗戦とともに、先進国ではヘアスタイルはデザインと認識され、美容院の人気は店ではなくヘアデザイナーの人気だということに気がつく。
髪型がヘア・デザインに変わった。美容師はヘアデザイナーとよばれるようになった。
1960年、日本の美容業界人が始めてヨーロッパを訪れたとき、私はムーランルージュのバックステージにいた。日本人が初めてパリで公演しているというので、皆で劇場にきてくださった。その時お会いしたのが大学をでて間もない紅顔の石渡潔だった。見て、学んで、創っていこうという意欲にみちた若い血がたぎつていた。 あの頃海外へ行く日本人は、みな志をもち、レジャーだの、暇つぶしでいく人はいなかった。
帰国後、さむらい会という男性美容師合同の旗揚げ公演に演出を依頼された。当時のにほんには、男性美容師と言われる人は11人しかいなかった。その11人も不思議な人が多く、共産党からオカマまでと揶揄されていた。 そのなかでヘアデザイナーといわれるにふさわしい仕事をしていたのが石渡潔だった。キヨシは勉強こそがいちばんという真面目を絵にかいたようなデザイナーだった。
さむらい会に始まった男性ヘアデザイナーは、着々と女性社会に切り込み、ようやく今日のような男性デザイナーの全盛期を迎えたのだ。
昨日、キヨシのお別れ会があった。入り口にはキヨシが晩年描いた三美神のガラス絵が飾られていた。明子夫人は少し不自由そうに歩かれていたが、お嬢さんふたりがしっかりと付き添い、相変わらずの美しさをたたえていた。裕君、関口さん始め誠実なスタッフとお弟子さんに囲まれ、充実した人生だったと満足していられることだろう。 合掌
KIYOSHI を悼む
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プロフィール
星野 和彦
Kazuhiko Hoshino
1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表
作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞
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