不況のときのAKB、おニャン子、そしてモーニング

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 世の中が不況になると、安上がりタレントが流行る。
 円高不況の1985年にはおニャン子クラブが登場した。
 1997年、銀行や証券会社が次々と倒産するとモーニング娘がデビューした。
 リーマンショックや空前のデフレ不況に悩む2006年には秋葉原の一角からAKB48が華やかにでてきた。アベノミクスが成功するとAKB48は終わりを迎える宿命にある。
 プロデューサーの秋元康は芸能界の裏事情に詳しいので、実に巧みな組み立てをする。自身初期費用から末期のリスク資金まで、一切の経済的負担を背負わずにプロジェクトを立ち上げる名人なのだ。言い換えればどこに金があるか、怪しげな芸能に資金を出しそうなところに鼻が利く。
 AKBに関して言えば、秋葉原界隈の事業家のなかで、若い女の子に興味を持ちそうな、若い出資者を先ず担ぎ出す。運営会社として、劇場から、衣装、日常マネージメントの金銭的責任をもたせる。プロデューサーが確保すのは、作品創りと初めカタチの見えない著作権だけだ。
 タレントもあちこちの芸能事務所で、売りあぐねている新人を集めてくるので、全く責任がない。問題を起こせば、移籍か卒業で出身事務所にお返しすればいい。
 そのうえで総選挙を実施して、投票券付きレコードを100万、200万枚単位で売り捌く。プロデューサーの懐には、信じられないほどの著作権料が入ってくる。運営会社の出資者たちもクチアングリなのだ。
 数十億の資金を投入した窪田社長は、若い篠田麻里子を自宅のあるマンションに住まわせ、混浴温泉に共に入ったと証言、見事に秋元製AKBというハニートラップにはまってしまった。
 今も昔も、若い女の子を集めての商売は、胡散臭さがつきまとう。 現代版越後獅子なのだ。


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プロフィール

星野 和彦

Kazuhiko Hoshino

1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表

作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞


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