ミラーレスに辿りつくまで

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 男は道具から…と言われる。趣味のはなし、ご他聞にもれず僕の写真道楽も道具から入った。
 もう70年も前のことだから、国産ではロクなカメラがなかった。
 そのなかでも単玉の、といっても意味が通じないかもしれないが、今は一本のレンズに10枚も15枚ものレンズがついて性能を競っているのだが、単玉というのはわずか1枚のレンズしかついていない。つまりそれほど原始的なパーレットというカメラがあった。が、パーレットはちゃんと写ったし、なかなかに味のあるカメラだった。パーレット写真術などという本まで出ていて、愛好家はいちいちウンチク付で撮影していた。
 その頃の憧れは、ライカか、コンタックス、いつかはライカというのが、カメラ少年の夢だった。
 がパリで仕事をしていた時、当時使っていたキャノンをフィガロ紙のカメラマンが欲しがり、これと交換して欲しいと出されたのが、ローライフレツクスのテッサー・レンズ付だつた。
 4枚のレンズから構成されているテッサーは、人物写真を撮るのに最高のレンズとされ、これはいまだに破られていない。女性の肌にカメラを向けた時、愛情いっぱいのなんとも甘い映像が撮れる。初めてのベネチィアはローライを使ったが、大きすぎた。正面に二つのレンズのついたローライは、じっくりと被写体に取り組むには最高のカメラだつたが、わずか12枚のカットしか撮れない、撮影している時間よりフィルムを取り替える時間のほうが長い。
 結局、ニコンのフラッグシップを次々と買い換え、交換レンズも20本ちかく揃えたが、80の声を聴くとさすがその重さを克服出来なくなってきた。
 そこに登場したのが、ミラーレスのカメラ。オリンパスOM=D 、軽くて多彩な機能をもち、かってのニコンを凌駕して働いてくれる。手にして楽しく、いつも僕の眼になってくれる。


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プロフィール

星野 和彦

Kazuhiko Hoshino

1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表

作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞


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