赤坂離宮(今の迎賓館)が国会図書館だったあの頃、勉強にいきずまるとよく離宮の大広間へ通った。
天井の高い赤坂離宮の大広間は、焼け野原の東京で中学生が、唯一眼に触れ空気に触れることの出来るヨーロッパの王宮だった。グラビアでしか見たことのないヴェルサイユ宮殿、フォンテンブロー宮殿というのはこんなところか、と眼を見張り天井絵に心を奪われながらの読書は、夢のまた夢、一生の贅沢を味わって離宮を後にした。
まっすぐ家に帰る気にもなれず、お堀端を歩きながら赤坂見付まで散歩した。 弁慶橋までくると橋のたもとのボート場に誘われ、揺れるボートに身を預け、15分程漕いでは、20分ほどうたた寝をした。小春日和のボートのうたた寝ほど、シアワセなものはない。
弁慶橋を渡ると、そこは異界だった。清水谷に至る道筋は「紀尾井町」と呼ばれ殿様の町、紀州徳川家、尾張徳川家、井伊大老家があった屈指のお邸町、それぞれの一字から紀尾井町の名がついたといわれていた。
それがいつか橋を渡った左側に、NHK歌のおばさん松田トシ、初代水谷八重子、それに当時の子役熱海幸子、そして歌舞伎では「紀尾井町!」と声が掛かった先代尾上松録さんらが軒を連ねた。
都内では大森山王、渋谷松涛と共に三大お邸町だった。そのお邸町も時代に呑みこまれ、次々とホテルやブランド・ショップに変わったが、最後までさんざめいて皆が出入りしていたのが、松緑さんの家だった。
その松緑さんのお嬢さんが、テコちゃんと呼ばれていた雙葉出身の名物娘だった。ここ二、三年夏になると軽井沢に現れて、昔語りに花を咲かしていた。 そのテコちゃんが突然、若くして天に召された。テコちゃんが、「マリア鈴木輝子」さんとは知らなかった。
田園調布のカソリック教会で、昨日お別れのミサがあった。女盛りの美しい写真が会衆に微笑みかけていた。 アーメン。
紀尾井町のテコちゃんがマリアさまになった
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プロフィール
星野 和彦
Kazuhiko Hoshino
1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表
作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞
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