ガーシュインの生きた時代

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 久しぶりに音楽に酔った。 ジュン・アシダのコレクションでのこと。
 ショー・ミュージックといえば、カジュアルなものからフォーマルまで、それぞれの作品に合わせて選曲された音楽が流れる。服の解説がなくなったいま、大容量のスピーカーから次次と送り出される音楽が、ファッションの空気を演出する。がショーの音楽も時代とともに大分劣化してきた。
 思い切りよくBG風なファッション音楽をいっさい排除して、ざっくりと大きな視線で音楽と向き合ったのが、芦田淳の2013秋冬コレクションだった。
 大きなスピーカーから流れたのは、ジョージ・ガーシュインの「ラプソディ・イン・ブルー」、これ一曲でオープニングからフィナーレまで押し通した。シンフォニック・ジャズの代表作といわれる名曲だが、ポピュラーからクラシックまですべての曲想に通じたガーシュインのイメージと、芦田淳の作風が重なってメリハリの利いた舞台が出来上がっていた。
 小細工だらけのショーが多い中、こうした王道を行く音楽の取り上げ方には大賛成だ。
 貧しいユダヤ系移民の子供として育ったガーシュインは、黒人のジャズと伝統的なクラシック音楽の融合に心を砕いた。 オール黒人のオペラ「ポギーとベス」、多くのミュージカル、シャル・ウィ・ダンスなどの映画音楽、パリのアメリカ人、ラプソティ・イン・ブルー、アイ・ガット・リズムなどの管弦楽曲、さらにピアノ曲から子守唄まで、20世紀最大の「完璧な音楽家」とさえ呼ばれている。
 あらためてこの曲をきくと、ニューヨーク摩天楼に象徴される希望に充ちた現代の足音が聞こえてくる。
 いつの間にか、希望は絶望に代わってしまったが、ラグタイムを聴きながらユダヤ人街に育った少年の夢がここにあった。


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プロフィール

星野 和彦

Kazuhiko Hoshino

1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表

作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞


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