「ヨイトマケの唄」ふたたび

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 美輪明宏が久しぶりの紅白登場で、「ヨイトマケの唄」を歌った。
 シンブルな黒の衣裳、日頃の黄髪を封印し、ひたすら音楽のみに集中して歌ったのは正解だった。近頃の紅白は、騒がしいコスプレや映像に振り回され、まるで安出の遊園地のごとくだったが、そこから抜け出し音楽家としての自己主張を通したのはさすがだった。 「ヨイトマケの唄」を初めてテレビに登場させた事情を知る友達から、良かった良かったの電話を数多くもらった。
 暗い穴ぐらの銀巴里に、若き日の丸山臣吾が鮮やかなメークをして登場したのはシヨックだった。彼の歌う「メケメケ」は大ヒットし、中性的な美貌は神武以来の美少年と謳われた。
 雌伏の数年が経ち、あの日電話をしなければ、あの時彼が電話口にでなければ、あの曲との出会いはなかつた。彼は電話の向こうで、いきなりアカペラで歌いだした。
 〜今も聞こえるヨイトマケの唄 今も聞こえるあの子守唄 工事現場のひるやすみ たばこふかして眼を閉じりゃ 聞こえてくるよあの唄が 貧しい土方のあの唄が〜
 電話の雑音のなかで、彼の唄うヨイトマケの唄は7分も続いた。6番までの詩にイントロとコーダがついた7分の唄というのは当時考えられなかった。唄うだけではなく、彼の今日を紹介し曲の狙いを説明するには、最低10分の時間が必要だ。当時の音楽番組では一曲2分半、せいぜい大曲で三分という枠組みが常識だつた。
 演出現場のスタッフを説得し、編成にも手を回して了解をとるのは結構大変だったが、決断のあとの反響の大きさですべての苦労は消えた。
 所得倍増の掛け声と共に、街角から母ちゃん達の「ヨイトマケの地ならし」も消えつつあった。


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プロフィール

星野 和彦

Kazuhiko Hoshino

1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表

作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞


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