約束の日、約束の時間に墓地下の彼女のアパートを尋ねた。「私、いまごろ川奈。伊豆の海を見ながら、読みたい本があるの。詩が欲しかったら、川奈ホテルにきて! かずみ」ドアにぴんで止められたメモに、ドタキャンの罪悪感は皆無だった。
約束というルールが無かったのは、井上ひさし、だから彼の脚本はいつもドタキャンの果ての成果だった。文士には、かなりいい加減な人が多かったが、遠藤周作、安部公房のふたりにはいつも約束が生きていた。原稿は必ず締め切り厳守で、ドタキャンはなかった。
おさな妻でスターになった関根(高橋)恵子は舞台をドタキャンして、彼と駆け落ちした。石原真理子もテレビをドタキャンして、どこかへ消えた。坂本九の場合、マネージャーのおかげで、録画にまにあわない、仕事のドタキャンもたびたびだつた。
80年代、世間にミーイズムがはびこりだしてから、社会の約束事より個人の都合が優先するようになった。半年前からの約束の司会の仕事を三日前にキャンセルされたことがある。理由は伯母さんの病気だった。スタッフがこない、皆がいらいらしているところに母親から電話があった。歯が痛いといってるので今日は休ませます。こうしたことが日常になり、彼女の体調が悪いので休みます、そんなセリフが当たり前になった。
どうしても観たいといわれ歌舞伎座の升席を抑えても、一力の座敷を予約しても、平気でドタキャンする、常識の欠如だが、結局はそうしたリスクを避けた範囲の付き合いになる。
3.11では出稼ぎのモデルたちはいっせいにドタキャンして帰国したし、セレブ・ブランドのマネージャー達もいつせいにドタキャンして帰ってしまった。ドタキャンの作法もミーイズムの極みというべきか。それでも恋のドタキャンほどには淋しくない。
ドタキャンという作法
コメント
1件のフィードバック
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とても魅力的な記事でした!!
また遊びにきます。
ありがとうございます!!
プロフィール
星野 和彦
Kazuhiko Hoshino
1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表
作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞
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