ここ数年、ブロードウェイにご無沙汰をしていたので、手始めはどの作品から、といささか迷った。映画も見たし、判っているのだがやっぱりボブホッシーの天才ぶりに触れることから今度のツアーを始めることにした。生前のホッシーとチャイナ・タウンで同席したことがあった。店はすっかり忘れているのだが、偶然に入った中華やでホッシーと同席した。普通アメリカではレストランの同席は先ず無いのだが、そこはさすがのチャイナタウン、混んでるからこのおじさんと一緒だよ。とばかりに飯やのおばさんは気楽に椅子を指定した。ふと顔をあげるとそこにまぎれもないボブ・ホッシーの顔があった。彼はその頃、オスカーにノミネートされたAll That Jazzの撮影後で疲れ切った表情が読み取れた。恐る恐る言葉をかけたところ、ニッコリ笑って、そうだボブホッシーだ、君はなぜ僕を知っているか、と逆質問された。東京でのホッシーの評判やら、当時関わっていたSKDのことなどたどたどしい英語で説明したところ、彼は非常に喜んでいつか僕も東京に行くよと握手して別れた。帰国後、SKDでAll That Danceと題したショーを構成演出したのだが、日本人のプロポーションではとてもボブホッシーの足元にも及ばなかった。
ところでCHICAGOだが、主演のクリスティ・ブリンクレイ、とアムラ・フェイ・ウェイトが素晴らしく十二分に満足させてくれた。初演時には素晴らしくても、再演時にはかなりカロリーダウンして良くない舞台がままあるが、まったくそうした齟齬を感じさせず感動的なステージだった。アン・レイン・キングというホッシーの志をつぐ振付師が素晴らしいのだろう。フィナーレでは突然舞台が止まり、ツナミを受けた日本の友人を助けよう、とロビーに出演者一同が日の丸のついた白い箱を手に立っていた。ドル札がどんどん投げ込まれ胸のつまっる光景だった。
ツナミとボブ・ホッシーのブロードウェイ。
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プロフィール
星野 和彦
Kazuhiko Hoshino
1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表
作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞
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