時空を超えた安倍公房論。

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 テレビ・ドラマの演出にかかわった十数年、安倍公房との一年がもっとも充実した日々だった。
 当時「砂の女」を発表した彼は、もっとも始原的かつアバンギャルドな作家として注目され、テレビドラマの前線に引っ張り出すのは、まず不可能と考えられていた。が三度、調布の自宅に押しかけ、今日の文学と新しいメディア映像論をかわすうちに、テレビドラマへの登場を快諾してくれた。お決まりの原作ドラマ化ではなく、共通の認識にたつオリジナル・ドラマを創ろうという意欲的な協力だった。現代の世相を中軸に過去・近未来・天国・地獄を自由にモザイクしたいかにも安倍公房らしい設定の劇空間を創ろうということになった。
 商業テレビの企画としてはサプライズにみちたものだったが、素材を下俗に求めることにより、充分お茶の間の観客にも理解可能であるし、娯楽性も確保できるだろうという狙いだった。
 そして取り上げられた素材は、①駅5分・ガス水道完備、学校近しという不動産やのウソと真実、②三年寝太郎ひきこもりの男がいくども仮縫いのすえ自分そっくりのアンドロイドを作り、彼に働かせ、最後は自己喪失するというロボット社会の恐怖、③本来知能指数の高いドモリが亀有の地下に集まり、指数の低い正常社会を乗っ取ろうという日毎夜毎の謀議、ドモリ矯正反対派の陰謀、④に下界は八百屋もパンやも株式会社、というわけで天国の幽霊が集まって幽霊会社を作ったが、さて事業目的は人間たちを驚かすという伝統的なお仕事だった、というパロディ等々…
 いずれも医者をめざした安倍公房らしい世界で、科学と文学が錯綜し、ファンタジーとフィクション、サイエンスがないまぜになつた文明批評にみちたドラマだった。思えばあの頃のテレビには、洋々たる明日があり、ロルカもアヌイも三島も川端もみな飲み込んで制作するゆとりと知性があった。いつのまにか殺しとお笑いと料理に堕ちたテレビ、何がそうさせたのだろうか。
 いま安倍公房再評価の気運があちこちに沸き、文学は滅びずの感を強くしている。


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プロフィール

星野 和彦

Kazuhiko Hoshino

1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表

作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞


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