1961年、ムーランルージュの仕事を終えて帰ってきたとき、六本木の友人たちが集まって歓迎会を開いてくれた。ホールの中央に色鮮やかなカクテルとシーフード・サラダが大きく盛り込まれ、まわりには椰子の芽や、パスタのいろいろ、ローストされた肉などが飾られていた。あかりは素朴なペンダントの四方に原色の布をさげた安価だけどお洒落なひかりがアクセントになつたレストラン、伝説のあのキャンティだった。横丁の突き当りには、スペイン村とよばれたアパートがあり、モデル、女優、カメラマン、貧乏時代の芸術家などが集まって独特のコミュニティを作っていた。
ハンバーガーイン、ニコラス、キャンティは後に六本木族の舞台になったが、当時の表通りはリヤカーと馬車と都電が併走し、豆腐や、金魚やのある六本木を、若者たちは我がもの顔でバイクを飛ばしアメ車でナンパしていた。今の国立美術館のまえにあったレトロなアパートの二階を借りていたが、下の部屋が六本木族のたまりになっていて、夕闇せまる頃になるとあちこちから若者が集まっては、バイクの排気音とともに街に消えていった。
あくる62年、発表されたのが笹沢佐保による小説「六本木心中」、「人喰い」や「空白の起点」ですでに直木賞候補になつていた作者が始めて書いた推理小説ではない小説だった。六本木の深夜のバーで出会った21才の青年と16才の少女が、なぜ心中しなければならなかったのか。未知の都会に生きる若さゆえの虚無感をテーマにした状況心理劇ともいうべき愛の物語だった。
早速、テレビ朝日(当時NETテレビ)でドラマ化する話が持ち上がり、制作演出を担当したのだが、都電廃止に掘り起こされて埃立つ表通りと、次々とビル化して歓楽の虚飾をまとっていく六本木のコンクリートを舞台に、理解されない若い心中を軸にドラマ作りをした。放映直後から局への反響はものすごく、電話が数日続いたことを覚えている。
六本木心中のあの頃。
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プロフィール
星野 和彦
Kazuhiko Hoshino
1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表
作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞
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