春まだ浅い軽井沢をあとに東京へ。エスカレーターはとまつている。エレベーターも3台の内2台は運行していない。電球も半分は消されている。福島第二原発のメルトダウンのまえに、なすすべなく光を失った大都市東京があった。この大都会こそ日本の原動力とたからかに吼えた指導者のなんと無力なことか。彼らのウソは目の前で崩れていた。
東京駅も丸ビルも、銀座通りのデパートもすべて輝きを失い、昨日まで働いていた外人たちはみな祖国へ帰ってしまった。外資系のセレブなホテルのマネージャー達もいっせいに戦線離脱、ホテルは営業不能に陥った。
時は春、いつもなら上野の花見やお堀端の桜情報が紙面を飾り、化粧品はピンクのリップがコマーシャルを飾る筈だつた。9.0の大地震、それを追かけるように発生した大津波、想定外の原発事故、すべてがこの国から春を奪ってしまった。
新幹線に乗って西に下る。富士が姿を見せても、浜名湖にかげろうをみても色がなかった。京都、鴨川べりの風にそよぐ柳と、はんなりと咲く桜をみて初めて桃色の春をみつけた。
花見小路には「都をどり」のぼんぼりが都の春をよろこび、道行く人々も生気に充ちていた。祇園甲部の歌舞練場に春は溢れていた。
「都をどりはーヨーイヤサー」の掛け声とともに舞台は始まった。明治の始めから数えて139回、世界でもっとも長い歴史を持つ日本のレビューは、いたいけな舞妓さんから芸妓さんに支えられて一か月間120回公演を務める。未曾有の大震災をまえに、国中が自粛自粛では経済も精神も折れてしまう。こんな時だからこその都をどりではなかろうか。今年京都は「芸術文化年」としてさまざまな催しを開く。世界的な文化芸術都市を創生するという目標が羨ましい。
都をどりはーヨーイヤサー…。
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プロフィール
星野 和彦
Kazuhiko Hoshino
1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表
作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞
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