田村正和の顔を考える。

by

in

 暮れも押し迫って、例年のごとく「忠臣蔵」が放映された。日本の映画史が始まって以来、恐らく最も多く映画化された素材かもしれない。テレビの時代になってからも年末年始の特別大型時代劇といえば先ず忠臣蔵が取り上げられる。四十七士の忠義話は多くの日本人に支持され、紅涙を絞るには大変向いたお話であるばかりか、悪人と47人という登場人物の単純明快さが制作する側にとって楽であり、余り深く考えないテレビ局の編成や、商売第一の代理店、視聴率のスポンサーにとってなによりの安全牌だからだろう。
 ところで今年の忠臣蔵、大石内蔵助を演じたのは田村正和、田村正和という役者はこんなに下手な役者だったかと今更のように驚いた。まず顔に力がない。のっぺりとした貴族顔に隠された迫力もなければ、意志の強さもなく、赤穂の浪士がついていきたくなる魅力もない。そのうえ袴をつけた時の歩きが出来ない。恐らく何十人かの内蔵助役者のなかでも、ワースト・ワンだろう。一力茶屋でかりそめに遊ぶ胆力など爪の垢ほどにも感じない。
 この配役、スポンサーのゴリオシか、テレビ局の無能か、プロデューサーの能力低下のいずれかと思うが、最近の平和ぼけからくる草食男子のノッペリ系はひとえに脳の働きがにぶく表情筋が動かないIT人間のなせる技、顔の幼児化現象の一つかもしれない。かって軟弱といわれ人気のなかった顔が忠臣蔵という国民的時代劇の真ん中に登場するとは、いくら元禄の爛熟期とはいえ到底考えられない。視聴率という魔物に飲まれ、田村正和ならば数字が稼げると思ったのならあまりに情けない。テレビというメディアはつねに時代のコマーシャリズムの影響から逃れられないかもしれないが、ドラマの制作者たちにはせめて歴史と文学、時代を見通す知性を持ち続けて欲しい。


コメント

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です


プロフィール

星野 和彦

Kazuhiko Hoshino

1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表

作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞


カテゴリー


月別アーカイブ