毒蝮がきた。と書けば蝮に襲われたと普通の人々は思うに違いない。いまでこそ「毒蝮」だが、それ以前、彼の俳優時代は「石井伊吉」という名前だった。石井伊吉はラジオの連続放送劇にも出ていたし、テレビにも東宝映画にも出演していた。若手にしては珍しくひどく個性的な骨太の役者だった。江戸っ子まるだしの気風のいい三枚目、楽屋はいつも彼が仕切っていた。
あの頃といつても、どの頃かわからないかもしれないが、演劇の世界では浅利慶太が慶応の劇研を舞台にアヌイやジロードウのフランス芝居を始めたころ、もうひとつの慶応のグループがありそのグループは翻訳劇を上演することを快しとせず、当時華々しく文壇に登場した石原慎太郎の創作劇を中心に演劇活動を始めた。そこにのちに浅利慶太の二代目女房になった影万里江や、ルパン三世峰不二子の増山江威子、俺は松下幸之助の落し子と豪語していた小林勝彦などに交じって石井伊吉がいた。僕は演出を担当していたのだが、劇場受付の美女を狙って立川談志(当時柳家小えん)が通って来たり、慎太郎が劇中に使用したプレスリーに感激したり、結構充実した暴れん坊仲間だった。談志と意気投合した伊吉がすっかり乗せられ、いつか「毒蝮三太夫」に変身したのもその頃。
蝮がしみじみと「あれから半世紀後、軽井沢で社会福祉の講演をするなんて思いもよらなかつた。人生ってなにが起こるか解らないよな」60年近く続いた友情に感謝したが、蝮は講演の最後に突如、選挙の応援よろしく「星野和彦をよろしく、星野和彦をよろしく」と連呼、客席を埋めた軽井沢の人たちはさぞやびっくりされたことだろう。客席で聞いていた僕には「お互い長生きしようぜー」というエールに聴こえたが、青春時代の仲間の愛に心打たれた一日だつた。
毒蝮が来た。
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プロフィール
星野 和彦
Kazuhiko Hoshino
1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表
作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞
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