軽井沢タリアセン、塩沢湖の畔にある朝吹登水子山荘で一日だけのサガンをテーマにした文学カフェを開いた。南が丘の閨秀作家山口路子さんが「サガンという生き方」を出版したその記念を兼ねて。 僕がパリで仕事をしていた1950年代末から60年にかけて、サガンはもっとも輝いていた。「悲しみよ、こんにちは」で颯爽と登場、「ある微笑」「一年ののち」と続いて「ブラームスはお好き」で作家としての名を不動のものとしていた。アストン・マーチンやジャガーを駆って大通りを走っただけでパリジャンの口に上った。10代にして何百億の金を手にした天才少女は世界中に話題を提供し、アンファンテリブル恐るべき子供達と呼ばれた。ルモンド紙からは「時代の病を象徴する作家」と厳しく指弾されたが、若者達からは圧倒的な支持をえていた。
ムーラン・ルージュのガラに、グレコとともにサガンが来た時は、嬉しくて固まったことを覚えている。グレコの黒いシンプルなイブニングとサガンのなにげないカクテルのシルエットが、いまだに忘れられない。「想像力に欠けている人は大嫌い」と言っていた彼女の眼に遠いアジアから来た日本のレビュウは豊かな想像力を提供しえたか否か、終演後楽屋に現れた二人は日本髪のカツラを手にいつまでも話こんでいた。
まもなくサクレクールの丘のすぐ下にあるアトリエ座でサガンの新作が上演された。コメディ・フランセーズなどの古典劇に対してアトリエ座は時代に一石を投じる創作劇の牙城だった。「スェーデンの城」と題された芝居は、湖にうかぶ城館を舞台に男くさい城主と自殺未遂の妻と美しい愛人と近親相姦の兄と横恋慕の従兄と、若く美しいひとりの女を軸に展開するハチャメチャなドラマだったが、いまにして思えば「つねに愛情ある不安を抱いていることが大切」といっていたサガン哲学そのもののような舞台だった。50年後のいま、サガンは生きている。
いま、なぜ サガン?
コメント
プロフィール
星野 和彦
Kazuhiko Hoshino
1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表
作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞
コメントを残す