松竹という会社の重厚長大主義、教条的な意識、前近代的なセンスの犠牲になって解散の憂き目をみたのが松竹歌劇団だった。本拠地としていた浅草の地盤沈下、国際劇場という名の仮設巨大劇場ももちろん責任の一端は担わなければならない。
演出の依頼をうけ始めて国際劇場に足を踏み入れまずショックを受けたのが、あの広い舞台の稽古場が劇場を取り巻く廊下だったことだ。薄汚れたその空間には昭和の初めの臭いが残り、豪華絢爛を謳い文句にしたあのSKDレビューがここから生まれるとは到底想像できなかった。その狭いウナギの寝床に年端のいかない少女からベテランのスターが集まってレビュー創りにいそしむ。その不思議な光景は、規律正しい生徒の生活態度と見事なまでのミスマッチで粛々とレビューが創られていた。があの空間に慣れるというのは恐ろしいことで、スタッフもキャストもそうした時代の汚れや空間の貧しさ、ベタな色彩への反発を失い、気がつくとどうしようもない時代感覚とのずれが生まれてしまっていた。
かくてSKDはフィナーレを迎えたのだが、千羽ちどり、高城美輝、明石薫、銀ひ乃での4人がレビューへの愛情断ちがたく始めたのが、STAS レビュー・ファンタジーだった。当初の公演は国際劇場での思い出にひっぱられ、4人の情熱とともに、無駄な道具やら趣味のよくない衣装に辟易とさせられた。金がないという現実をまえに、イメージだけがかっての松竹大歌劇であっては勢い貧乏くさい舞台にならざるをえない。急ごしらえの群舞も不揃えで下手という悲しさだった。
そして18年が過ぎた。4人の情熱は持続し久しぶりに舞台を拝見した。だいぶ無駄がとれ、スッキリとした出来上がり、群舞の若いメンバーも格段に上手くなった。打ち込みの音楽もかなりショウアップして楽しめる。4人は相変わらず頑張っている。若手では日高理恵、芹なづな、の進境いちじるしかった。篠井さんもいい仕事をしていたが、それでもベストシーンは、かっての松見登によるシング・シング・シングであったのはなぜ。この国では振付という仕事が恵まれず、振付師が自己投資できないので、新しい才能が育たない。いろいろなことを考えながら浅草公会堂を後にした。ふと見上げると建築中のスカイツリーが21世紀を告げていた。どぜうの飯田屋は内装もすっかりいまどきの和モダンになり、20年前の味そのままに迎えてくれた。
SKD松竹歌劇の20年後…
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プロフィール
星野 和彦
Kazuhiko Hoshino
1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表
作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞
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