アヤパン新興宗教の広告塔となる?

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 アヤパンこと高島彩は成蹊学園の後輩ということもあり、なんとなく気にかかっていたが、年内で寿退社という運びになったようだ。フジでは「めざましテレビ」の後任にとりあえず生野陽子を立て、切りたかった大塚範一を残して番組続行を決めたということだ。ところでアヤパンの嫁入り先のゆず・北川悠仁だが、彼も幹部を務め、母親が教祖になっている「かむながらのみち」に触れない訳にはいかない。「かむながらのみち」の五大教義には、仏教/神道/算命学/セミナー/リーディングの五つが挙げられているが、仏教神道はよしとして、そこに算命学なる占いが入っているのがいかにもの近頃宗教、さらにセミナーやらリーディングとくると、どうしても金儲けの臭いがふんぷんとしてくる。二十年ほど前、和泉宗章(かっての芝居の仲間)によって猛烈に喧伝された「天中殺」こそが陽占といわれる算命学の中心であり、第二次世界大戦後中国に追われ長崎に亡命してきた呉仁和によって日本で始まった占いなのだ。いくつもある天中殺は目の前の信仰に奉仕することで、無限の天界と縁がつくれる時間帯であるという新興宗教にとってこの上なく好都合な占いなのだ。さして知性に優れているようにもみえないアヤパンが、はまってしまいそうな宗教ではある。大殺界が明けないと結婚をゆるさないという教祖北川の母にすでに充分のマインド・コントロールを受けているのだが、せっかくの時間を横浜中華街での同棲マンションに酔い遊ぶことなく、同じ神仏混淆の解脱会から真如苑、そして「かむながらのみち」ときた新興北川宗教の表と裏を謙虚に学習してみたら如何。そこで広告塔の正否が見えてくることだろう。敗戦後、すべての宗教教育を破棄してきたこの国の欠点が、おもわぬところで馬脚を出してしまった女子アナ戦線の裏事情である。


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プロフィール

星野 和彦

Kazuhiko Hoshino

1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表

作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞


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