1972年の秋、ヴェニスの街を彷徨っていた。前年に見たヴィスコンティの映画「ヴェニスに死す」に触発され、コレラの流行で黒く痩せ衰えた人々のかたわらで感染した家や寝具を焼く炎のなか、少年タジオへの想いを抱えて彷徨する初老の指揮者の姿が網膜に焼き付いて、もう一度ヴェニスの街を歩きたくなったのだ。マーラーの交響曲5番第四楽章アダージェットが耳鳴りのようについて離れない。路地から路地、運河にぶつかり、また細い路地を抜けて、映画のあのシーンはここだ、あそこだと今にして考えれば意味のない探索行をヴェニスの裏町でしていた。ゴンドラにも水上バスにも乗らず、来る日も来る日も古い石畳の道を歩いた。そして突然にやって来たのが、ギックリ腰、激痛で歩くこともならず、医者を訪ねて治療してもらうも、どうやら最低2週間はかかるというご託宣。絶望的な気分で杖を突きながら角を曲がるとそこに古ぼけた薬屋があった。薄汚れたウインドウのなかに発見したのは「トクホン」の文字、地獄に仏の気分で買い求めた。当時円換算で700円位だったのだが、4枚ほど値段のシールが重なっている。上の一枚をはがすと500円が出てきた。それを剝がすと400円、その下の値段は300円だった。売れずに残った商品は安くなるのが道理だが、ヴェニスはどうやら逆のようだ。祈るような気持ちでトクホンを5枚きっちりと並べて腰に張った。強烈な臭いと厚いシート感になじめず、まんじりともせず一夜を過ごした。ところが翌朝、奇跡が起こった。医者に見放されたギックリ腰がどこにもない。あの売れ残りのトクホンが、輝いて見えた。それからしばらくは僕の中でトクホンは信仰の対象になっていた。だからなかなかサロンパスには届かなかったのだが、たまたま海外への出発時、成田でサロンパスしか置いてない、と言われ一気にサロンパスに馴染んでしまった。その後インテバンクリームとなり、今はこの春、パリのエステティシャンに教えられたビタマン・スポーツというアポリジニの愛していた自然素材クリームに世話になっている。
プロフィール
星野 和彦
Kazuhiko Hoshino
1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表
作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞
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