韓流からK-popへ

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 ついこの間まで本屋にも歯医者にも韓流ドラマのポスターが張ってあった。「世界一悲しいお顔が似合うひと」と献辞し、冬ソナのロケ地は日本のオパサン観光客で賑わっていた。ビデオ全部持っているから見なさい、と強制され逃げるのに苦労した。なぜオバサンは韓流に走るのか。よく考えるまでもなく、日本のテレビ・ドラマと称するものはあらかたミステリー、殺人ドラマ、若いタレントが出演していればマンガの焼き直し、そうでなければ病院もの、これではベタな韓流のほうがずっと夢を見させてくれるし、悲恋に涙するカタルシスがある。「僕がシニョンを捨てた時、僕の身体が僕を捨てた。」ラストのセリフに酔い、そして「パク・ヨンハさんをずっと忘れない。」という流れになる。
 そしていま世代は若返り、十代二十代の若い男女に襲いかかっているのが、K-POP美女軍団である。少女時代の美脚を先頭にぞくぞくと日本へ上陸しつつある。KARAのヒップダンス、4MINUTEのクラブ系妖艶ダンス、WGのレトロダンス、2NE1のレゲェダンスとそれぞれがハッキリしたダンステーマをもっている。グループごとの差別化が明確にされて視聴者、観客の期待を裏切らない。腰のくびれもプロポーションも、ささやく吐息も歌唱力も、ダンスの精度も格段に高く、新鮮な完璧さをもっている粒揃いのプロ集団なのだ。秋葉ドンキのステージからでてきた誰でもなれそうな商売中心のアイドルグループとは根本的に違う。いま日本人は毒されているアイドル趣味から抜け出し、芸能に於けるプロフェッショナルという課題と真摯に向かい合う必要があるのではなかろうか。「不安よりワクワク感が大きい」(少女時代)「オリコン上位食い込みが目標」(KARA)「実力を日本で試したい」(BEG)カワイイ、カッコイイと黄色い声を上げている間に、この国の芸能界は韓流K-POPに乗っ取られてしまうだろう。


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プロフィール

星野 和彦

Kazuhiko Hoshino

1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表

作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞


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