少年愛と白い肌の死。

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 6月25日ロス郊外UCLA付属病院でマイケル・ジャクソンが亡くなった。8才(実は11才)で全米ヒットチャート一位に輝き、50歳で亡くなるまで、彼の人生は才能とスキャンダルにまみれていた。アフリカ系黒人ゲットーで生まれた彼の一生は、白い肌へのコンプレックスと憧れに彩られ、マイケルは黒人か、白人かという話題を提供し続けていた。白い肌は病気なのだという説と化粧だという噂がいつも渦巻いていた。プレスリーの娘との一回目の結婚に続いた二回目の彼の皮膚科医の助手デビルロウとの結婚も、噂を増幅した。代理妻による次男の誕生等、子供の肌が白かったためさらに格好の話題を提供した。1993年来の少年への性的虐待裁判、実情は計り知れないが少年に対し異常な興味を抱いていたことは確かだ。黒人ゲットーの子供達からアイディアを得たという「ムーンウォーク」、マドンナと共に世界中に巻き起こしたM・M旋風、生涯7億5000枚にのぼるレコード売り上げなど日本の芸能人とは一桁も二桁も違うスケールをみせつけた。来日の折、SMAP×SMAPに飛び入りし、2000万円を要求したのも懐かしい思い出話である。


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プロフィール

星野 和彦

Kazuhiko Hoshino

1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表

作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞


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