終戦という言葉は好きになれない。「神の国日本は有史以来、外国に敗けたことがない。だからこの聖戦も絶対に勝つ。」繰り返し繰り返しそう教育されてきた僕らには、終戦などというあいまいな単語はなかった。敗戦とともに突然登場したのが、とりあえず目先を取り繕うという意図がみえみえの終戦という言葉だった。
あの時、僕は仙台西北に位置する権現の森にいた。東京大空襲の3月10日まで西荻窪の防空壕でひとり頑張っていたが、空襲をさかいに電気、ガスが止まってしまった。中学一年生の子供ではもはや対応できない。僅かばかりの乾パンと炒り米を携え、日本史の教科書を手に鉄兜をもつて仙台の母の実家に疎開した。転校した青葉城下の学校も7月10日B-29の無差別爆撃により灰塵に帰した。広瀬川には累々と死体が流れ、中学生は焼け跡整理に動員された。焼け焦げた馬の腹からとびだした大腸の黄色の生々しさがいまだ網膜に焼き付いている。焼け跡から仕事場は上流4キロほどの権現の森へ移った。広瀬川の断崖に掘られた東北軍管区司令部のトンネル補強のための材木伐採作業だった。直径20センチ長さ2メートルほどの松の生木を肩に2時間かけて町へもどってくるのは中学2年生の子供には苛酷な労働だつた。そしてあの日を迎える。11時には作業を中止し集まれと命じられた。どこから都合してきたのか中央の切り株のうえにラジオがあった。多分乾電池式鉱石ラジオではなかったか。よく覚えていないが、雑音がひどく何を言っているのか良く分からなかった。ただ初めて聞く天皇の声がひどく甲高く、難解な漢語の多い詔勅に何かが起きたのだろうという不安に包まれた。玉音放送が終わるやいなや、軍事教官が抜刀し、ものすごい奇声を発して森のなかに走った。「…陛下!陛下!申し訳ありません!…」あわてた下士官がふたり、教官を追いかけて森の中に走っていつたが、腹切り寸前で止めたと知らされた。目撃した出来事は中学生には余りにも重く、言葉を失い無言で松の木を肩に仙台の街に帰ってきた。青葉城のまえの大橋には多くの人々が皇居に向かい、頭をたれて嗚咽していた。
敗戦のあの時…。
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プロフィール
星野 和彦
Kazuhiko Hoshino
1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表
作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞
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