今ごろなぜか 銀ブラ論争

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 昭和回帰の風潮とともに「銀ブラ」の起源について、論争が起きている。
 銀座八丁目のカフェ・パウリスタは、うちのブラジルコーヒーを飲むことを即ち「銀ブラ」といったと主張、パウリスタでブラジル・コーヒーを飲んだ客に「貴方は本日、銀ブラを楽しんだことを証明いたします。」という銀ブラ証明書を発行し続けている。
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 それに対し三省堂国語辞典第七版では「銀ブラ(中略)東京の銀座通りをブラブラ散歩すること。(大正期より「銀座でブラジルコーヒーを飲むことだった」という説はあやまり)と記載されている。
 何人なの学者が論争に加わり、銀座パウリスタの主張は宣伝のための詭弁であり、語源に成りうる実態を備えていない、と主張している。
 画家の松山省三はカフェ・プランタンを経営していたが、銀ブラとは銀座の遊民、地回りを指した言葉で「ああ、あいつか。あれは銀ブラだ」といった具合に使ってたと発言している。
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 学生時代、神宮での六大学野球早慶戦に慶応が勝つと、銀座通りは慶応一色に埋まった。四丁目のライオン・ビアホールを皮切りに慶応に関わるバー、飲食店はすべて無料開放、四丁目の角でも、五丁目の並木通りでも七丁目の資生堂まえでも酔っぱらった三田の先輩後輩が肩を組み、道幅いっぱいの輪を作って、校歌、応援歌をいつ果てるともなく歌っていた。酔った勢いで眼の前のバーに乱入、飲み放題で次へ移動した。きっと誰か先輩が払ったに違いないのだが、そんなことには誰一人気を使わず、銀座は我が家とばかり狂騒は朝までつづいた。 
 諸説花開いてケンケンガクガクだが、銀ブラという響きには憧れ・ゆとり・セレブ・スマートなど、次々と時代の想いが増殖されて今日まで生き残ってきた。
 この際、日本中の銀座が集まって「銀ブラ・サミット」を開き、美観憲章でも創られたら如何。


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プロフィール

星野 和彦

Kazuhiko Hoshino

1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表

作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞


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