バリから帰国したとき、友人たちが集まってパーテイを開いてくれたのが、六本木のキャンティだった。
キャンティは開店してまもなく、手作り風なインテリアが、それまであった東京のどの店とも異なった魅力ある雰囲気に充ちていた。テーブルの上には、裸電球のソケットのうえに20センチ弱の四角い板を乗せ、その四辺から黄色い木綿の布を垂らしたオシャレで素朴なペンダントが下がっていた。そのペンダントから漏れる黄色い光が友人たちの横顔を彩り、パリへ戻ったような錯覚にとらわれた。
紹介された店のママは、川添梶子タンタンと呼ばれていた垢ぬけた女性だった。……が待てよ、どっか見覚えのある女性だ。
そうだ過ぐる年、オペラ・コミックでの出逢い、その夜の演目はオペラ・ミニヨン、作品は退屈だったがアンコールの時、二階上手のローヤル・ボックスから派手な嬌声とともに髪にあしらった深紅の薔薇の花を投げた日本女性がいた。まぎれもなくあの日本女性こそ、眼の前にいるタンタンだった。
彼女については数々の桃色武勇伝を伝えきいていたが、当時もと高松宮邸を改装して光輪閣という皇族、華族たちの社交場になっていたそこのマネージャー川添浩史と結婚、キャンティを開店したとのことだった。
タンタンは一階の片隅にベビードールという小さなブティツクを設け、自分自身がパリへ飛んで気にいった洋服を買ってきて商売を始めた。その洋服に集まってきたのが、詩人安井かずみ、若い加賀まりこなど、話題の女性たちだった。当時の奔放な女性たちにとってタンタンの趣味と生き方は憧れだったのかもしれない。
キャンティはスパゲティ・バジリコなど、日本人の知らなかった緑のスパゲティなど紹介したが、レストランというより、かっての六本木に華開いた文化サロンだつた。
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プロフィール
星野 和彦
Kazuhiko Hoshino
1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表
作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞
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