石原慎太郎の追想

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 スキャンダラスな話題と共に颯爽と文壇に登場したのが、一橋大学の石原慎太郎だった。芥川賞受賞作「太陽の季節」。
 舞台は湘南、欲望をもてあました青年の青春ものがたりだったが、芝居仲間で舞台にのせようということになった。
 当時の慶応には、浅利慶太を中心にした翻訳劇専門のグループと、赤毛物を上演しても意味がない日本には日本の創作劇があると主張する劇団山王のふたつの演劇グループがあった。
 貧しいイメージの日本人の赤毛スタイルにうんざりしていた筆者は、当然のごとく山王の仲間と逗子の石原邸を訪ねた。御用邸の南の二つ目の岩陰にたっていた石原邸の座敷で、初めて若き日の慎太郎と対峙した。彼自身舞台への興味があったせいか、原作使用の許諾は簡単にとれた。
 劇団山王「太陽の季節」はお堀端GHQのあった第一生命ビルのホールで上演した。
 楽屋は声優界のレジェンド増山江威子、のちに浅利の女房となった影万里江、老人のご意見番毒蝮三太夫、服部哲治、稲吉靖、長谷部恭、才人の水森亜土など、エネルギーに充ちていた。柳家小えん時代の立川談志もうろうろしていた。芝居は評判をよんで成功したのだが、原作者たる慎太郎がいちばん興味をもったのが、若者たちが踊り狂うテーマ曲だった。プレスリーのDon’t Be Cruelを主題にしたのだが、さすがの慎太郎もプレスリーの突き上げる音楽に脱帽した。俺の小説より凄い、とつぶやいたのが耳に残っている。
 当時、赤坂の料亭まひるで開いていた有吉佐和子、曽野綾子、藤島泰輔らとの文学懇談の会に誘われ交友をかさねたが、いつか慎太郎が政治の世界に足を踏み入れた頃から疎遠になった。               合掌


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プロフィール

星野 和彦

Kazuhiko Hoshino

1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表

作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞


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