水辺の消えた銀座

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映画君の名は.jpg
 中学生の頃、銀座といえば数寄屋橋だった。橋の下には外堀川が流れていた。
 数寄屋橋は「君の名は」の名所だったし、そこには真知子巻きの岸恵子がいつもたたずんでいるような気がしていた。初めて街頭テレビをみたのも数寄屋橋のたもとの朝日新聞社の前にあった20インチほどの白黒テレビだった。
 今でこそ銀座といえば一丁目から八丁目だが、当時は数寄屋橋、三原橋、京橋、土橋、中ノ橋、堀留橋と橋の名前が銀座のイメージだった。それほどに銀座は川の町、水の都だった。すこし歩けば川にぶつかるので、川風にそよぐ柳がとてもよく似合う街だったのだ。
銀座橋の地図.jpg
 外堀川が埋め立てられ、高速道路が出来た時は、嬉しいような悲しいような不思議な気分だった。週末には銀座にでて、土橋から京橋までのわずかばかりの高速道路を走るのが楽しかった。
 そのうちに三十間堀川も見えなくなって三原橋の名前だけが残った。橋の下には天井のつかえそうな映画館ができた。いつも焼き鳥を焼いている居酒屋が並んでいて、名画をみる時は焼き鳥のにおいもついてきた。
 
 外堀川、三十間堀川、汐留川、築地川、京橋川、汐留川 次々と水辺は消えて埋立てられたのか、暗渠になったかも判らないまま、水のミヤコ銀座は、コンクリートの大都会になった。
 「銀ぶら」の昔は行方知れずになった。


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プロフィール

星野 和彦

Kazuhiko Hoshino

1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表

作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞


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