想い出の「電通鬼十則」

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 世界の電通になるまえ、銀座土橋通りにあった小さな電通の想い出である。
 戦後初めての民間放送、テレビではなくラジオが始まろうとしていた頃、いち早くラジオの録音スタジオを作ったのが土橋通りにあった電通であった。屋上には「日本電報通信社」と看板が掲げられ、電報とラジオの接点が不思議だった。
 その電通の小さなスタジオで、美空ひばりの「リンゴ園の少女」という番組を収録するため、筆者は毎週かよっていた。 
 玄関を入ると正面の壁に掲げられていたのが「電通鬼十則」だった。戦争中の戦陣訓の記憶がよみがえり、「電通鬼十訓」と読んでいた。
当時の四代目社長吉田秀雄がさだめた仕事のための指針である。印象に残ったいくつかを列記してみる。
 ■仕事はみずから創れ、与えられるべきでない。
 ■大きな仕事に取り組め、小さな仕事は己を小さくする。
 ■取り組んだら放すな、殺されても放すな。
 ■頭はつねに全回転、八方に気を配れ。
 ■摩擦を恐れるな、摩擦は進歩の母、積極の肥料である。……鬼十訓の半分である。
 世界の電通を創ったエネルギーの素は、あの鬼十訓だった。東大出身の自殺した新入社員のお嬢様には、到底理解できなかっただろう。いまではブラック企業の代表になってしまったが、なにはともあれ広告代理業に市民権をあたえたのは、あの「鬼十訓」と、毎夏全社員が取り組む「電通富士登山」だったと信じている。


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プロフィール

星野 和彦

Kazuhiko Hoshino

1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表

作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞


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