名門ウォルドーフ・アストリアの内実

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 N・Yのウォルドーフ・アストリア・ホテルは筆者と生まれた年が同じ。1931年にエンパイア・ステート・ビルのあるダウンタウンから引っ越してきた。 パーク・アベニューの49丁目と50丁目の間に威容を誇っている。アールデコ・デザインの典型モデルとしてアメリカの歴史的建築物に指定されている。
 マリリン・モンローのケネディ大統領との恋は、このホテルが舞台だった。
 エリザベス・テーラーも、フランク・シナトラも、マフィアの大親分ラッキー・ルチアーノもみなこのホテルと共に暮らしている。
 ミューカルが脚光をあびた60年代から70年代、筆者のブロードウェイ通いもこのホテルからだつた。毎年12月中旬から年末大晦日までブロードウェイの劇場を見歩いた。その年のヒット作品、切符は2年先までソールド・アウトといわれていても、ウォルドーフ・アストリアのコンシェルジュは必ず取ってくれた。
 昭和天皇から各国元首、アメリカ歴代大統領まで宿舎としていたホテルのコンシェルジュには、ブロードウェイへの絶対的チケット確保のルートがあったのだろう。 いつもホテルの金枠の封筒に入ったチケットを軽いウインクとともに渡してくれた。チップは50ドルのこともあったし、100ドルのこともあった。
 コールポーターの弾いていたピアノのあるピーコック・アレーで、前夜の舞台を思い出しながらとる朝飯が楽しかった。新しい年とともにラスベガスにとび、ニューヨークで冷え切った身体を温め、ショーを見て東京へ帰るのが、年中行事だった。
 あのウォルドーフ・アストリアが東京日本橋に出来ることになった。三井不動産の高級化路線として、マンダリン、リッツカールトン、フォーシーズン、ブルガリに次ぐ計画というが、心配もある。
 2014年にウォルドーフ・アストリアは安邦保険集団という中国の国営企業に買い取られた。
 三菱地所のロックフェラー・センター買収に比べられ、当時のアメリカメディアの話題となったが、以来機密漏洩を心配してアメリカ政府は、アストリアから国連大使公邸をひきあげ、大統領も使用しなくなった。いまアストリアを利用しているのはアフリカの中国系小国ばかりになっている。
 日本にウォルドーフ・アストリアが出来るのは結構だが、中国の情報採取ホテルであっては困るのだ。
 


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プロフィール

星野 和彦

Kazuhiko Hoshino

1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表

作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞


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