筒美京平の生きた時代

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 作曲家の筒美京平さんが亡くなった。
 1960年代から1990年代にかけて、膨大な作曲をしたヒット・メーカーだった。
 船村徹さんやら、宮川泰さんなど同世代の作曲家は何人もいるが、筒美さんほど底辺の広い作曲家を知らない。
 尾崎紀世彦の「また逢う日まで」、太田裕美の「木綿のハンカチーフ」、庄野真代の「飛んでイスタンブール」など、音痴の筆者でも好きな曲は多い。
 ベタな演歌だけでなく、ちょっとお洒落な半歩歌謡曲を抜けでた楽曲が多かったような気がする。
 「詞先」シセン「曲先」キョクセン という言い方が業界にある。
 詞先はまず歌詞ありきで言葉が優先される。しっかりした詞があって、しかるのち曲をつける。 曲先はリズムなり、メロディが先にできている。きまった音符に言葉を付けていく。
 むかしは歌のほとんどが「詞先」だった。作曲家はとことん言葉と向かい合い、そこに表れた言葉、隠された心情をメロディにつむいでいく。
 コンピューターのソフトで作曲する今は、圧倒的に曲先が多くなった。歌いやすい歌が減ったのは、ひとえに曲先という情報化時代のせいである。。
 古賀政男も、船村徹も、筒美京平さんもみな「詞先」の時代の名作曲家だった。彼らにとってはまず良い言葉があって、すぐれた詩があってこその作曲家だった。
 ジャンルは違うが、中田喜直さんの名曲「ちいさい秋みつけた」「夏の思い出」「雪の降るまちを」などもすべて詞先の名曲である。
 パソコンの時代になって失ったものはものは多い。歌がじっくりと味わうものでなくなって、即物的に踊れれば、それでよしとする悪い習慣が身についてしまったのだ。
 サカミチの女の子をいくら追いかけても、CDをしこたま買っても、しみじみと歌いたくなるような歌は「曲先」からは決して生まれない。
 コンピューターによって殺された芸術家、それが筒美京平さんだった。


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プロフィール

星野 和彦

Kazuhiko Hoshino

1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表

作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞


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