鮎を守って、人が死んだ、球磨川氾濫

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 熊本豪雨による球磨川流域の死者は60名に上っている。
 メディアは忘れたかのように報じないが、当時から球磨川は日本三大急流のひとつに数えられ、田中角栄首相の時に上流域に水量調節のためのダム計画があった。
 五木の子守唄で知られる五木村を源流とする川辺川ダムの建設計画であった。球磨川の流量調節のためには、支流川辺川の流量をコントロールする必要があった。
 この計画に猛烈に反対したのが、民主党共産党の左翼勢力と左翼市民団体、弁護団の人々だった。群馬の八ッ場ダムと同じ構図で、当時の民主党政権前川誠司国交相の手により、計画は次々と中止された。
 「コンクリートから人へ」というキャッチフレーズのもと、ダム計画は次々と廃止されたのだ。
 治水こそ政治の要諦と考えた先人たちの知恵は否定され、去年は長野でも千曲川決壊で甚大な損害をうけた。幸い群馬では八ッ場ダムが自民党の手により復活したので利根川流域の水害を免れた。
 上流の五木村は、ダム建設を見越して高いところに移転していたにも関わらず、左翼団体は必用に反対運動を繰り広げ、今日の災害を招いた。 蒲島熊本県知事も民意が反対だから知事も反対と腰がひけ、今日の惨状を招いた。
 つまり今回の球磨川氾濫による60人の死者は、あきらかに人災なのだ。
 こうした問題点を報じないマスコミも同罪といえる。反対をさけぶ一部左翼団体になんの批判もせず、ひたすら「線状降水帯」だからと言い訳をするメディアは多いに反省すべきだし、半世紀まえから計画されていた「川辺川ダム」の建設再開を訴える勇気をもつべきだろう。
 「鮎を守って、人が死ぬ」愚行をいつまで続ける気なのか、球磨川流域に住む住民も眼を醒まさなければならない。
 


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プロフィール

星野 和彦

Kazuhiko Hoshino

1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表

作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞


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