「アドリア海の女王」という言い方に惹かれたし、「水の都ベニス」そんな呼び名にも惹かれて、数回のヴェネチア行があった。
ヘミングウェイの常宿でもあった五つ星+Lのグリッティパレスの朝食に憧れて、大運河からボートでチェックインしたこともあった。朝日に輝くサンタマリア デッラ サルーテ聖堂を前に、ゴンドラの行き交うキャナルを見ながらの朝の食事は、夢のまた夢のときだった。
ある年の大晦日にはサンマルコの広場で、足の踏み場もないほどのシャンパンのボトルの破片の中で、新年のハグをかわした。無数の花火が新しい年の来復を告げていた。
迷路のような狭い路地を訪ねて、カサノヴァのトランプを買いに行ったこともあった。亡き岩田糸子さんとゴンドラに揺られて島中を遊びあるいたこともあった。
万華鏡のようなヴェネチアがもつとも輝くのはなんといっても二月のカーニバル、世界中のセレブが集まって美しいマスクをつけ、中世のドレスをきこんで島全体が何世紀の昔に帰る。仮面をつけ、時代衣装をまとえばだれでもが祭りの主人公になれる。
昔貴族たちが美しい娘たちを手に入れるため、仕組まれた仮面舞踏会の作法がそのまま二月のマリア祭に持ち込まれたのだ。わくわくするような美しさに包まれた猥雑な行為に、人々みなが生きる命を謳歌しているようだった。
ことしのカーニバルは、武漢コロナのおかげで途中打ち切りの憂き目にあつた。中国の一帯一路の甘言に乗った結果がこれだった。
カーニバルのマスクの中にはかってのペストの経験から「ペストの医者」と呼ばれる鷲鼻のマスクもある。マスク工房の店は蠱惑的なマスクを店頭から引き揚げ、みなこの「ペストの医者」を飾ったが効果はなかった。
ヴェネチアの全人口の一割ものひとびとが、あの世にたびだってしまった。 人影のきえたサンマルコの広場は悲しい。ペストの医者も悲しいけど、これが現実だ。
ヴィスコンティの「ベニスに死す」が蘇ってきた。
ヴェネチアの悲劇
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プロフィール
星野 和彦
Kazuhiko Hoshino
1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表
作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞
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