村山槐多とゴヤの衝撃

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 初めて「村山槐多」の奇作にであったのは、信濃デッサン館だった。
 作家水上勉さんの子息・窪島誠一郎さんが自費で建設した美術館で、夭折した作家の作品を集め、信州別所平の山懐にシックなたたずまいをみせていた。
 その美術館の目玉が「尿する裸僧」だった。僧侶が合掌しながらみずからの拓鉢にむかって放尿するという衝撃の作品だった。そのシチュエーションの大胆さにどうむきあったらいいか一瞬ためらいに襲われた。
 前年、イタリア美術探訪のついでに、スペインマドリッドを訪れた。プラドー美術館でゴヤの作品がみたかった。薄暗い一室にゴヤの作品だけが集められていた。
 息をのんだのは、「我が子を喰うサトゥルヌス」、自分の子に殺されるという予言に恐れたサトゥルヌスが、自分の5人の子供を次々と頭から食い殺す、その情景がリアルに描かれている。ぞっとしてその絵のまえにたちすくんだ。震えが止まらなくなった。
 あの時の慄然とした気分をおもいだしたのが、槐多の「尿する裸僧」だった。
 ミケランジェロだけを見て歩いたイタリアの旅、パリ、アンティーブ、バルセロナと回ったピカソの旅、ノルマンディを巡った印象派の旅、アートに惹かれた旅はいろいろとしたが、感動感激につつまれても、衝撃にやられる旅はそんなにない。その数少ない体験を味合わせてくれたのが、ゴヤと槐多だった。、
 ゴヤは壮絶だが美しかった。槐多は土臭く美しくない。民画のような骨太さは野暮ったく疲れるので、僕のなかでは余り評価しない。それより詩人としての村山槐多にひかれる。詩人として中原中也を超えている、とさえおもうことがある。
 槐多没後100年のことし、新たに発見された140点の作品の真贋騒動が美術界をにぎわしている。評論家と画商のあいだで如何にもの贋作騒動、話題が高値をよんで美術流通が活気ずくという日本独特の不思議である。


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プロフィール

星野 和彦

Kazuhiko Hoshino

1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表

作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞


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