長崎原爆忌と隠れキリシタン

by

in ,

くんち.jpg 
11時02分 NAGASAKI この時を迎えるたびに、初めて長崎を訪ねたあの夏の終わりを思い出す。
 爆心地の浦上天主堂あたりは、隠れキリシタンの多かった地域で、海を渡ってきたキリスト教を熱心に信じていた人々が、クリスチャンによって作られた原子爆弾の洗礼を受け、7万4000人の同胞とともに命を失った11時20分は、歴史上もっとも皮肉な惨劇だつた。
 信じていた心の故郷に裏切られ、一瞬で命を失ったのが、長崎隠れキリシタンの子孫たちだった。
 長崎を知りたければ、まず湾をはさんで対岸にあるの諏訪神社の丘から町を見たらいい、と教えられお諏訪様の長坂へ。
 長崎のすべてが鳥瞰できた。対岸の左手には浦上天主堂を中心にキリシタンの町、手前の出島、中央の山の斜面には九州最大の同和地区、山肌にそって低い家並みの群落、役割は隠れキリシタンの監視と犯罪人の探索など、長崎県で被差別部落がないのは、五島列島だけと教えられた。
 あの長崎くんちに見る異国情緒、豪華絢爛な表の表情とはまったく異なる長崎の町があった。
 「コッコデショ、コッコデショ、コッコデショ」五色の大きな布団に飾られた太鼓山、鯨の潮吹き、龍踊、ご朱印船、唐人船、オランダ漫才、等々……にほんの祭りのなかで最も色彩豊かなまつりが長崎くんちである。その長崎くんちが見たくて長崎にいったのだが、出町より、しっぽくより、花月よりも心にきざまれたのが、隠れキリシタンと同和のものがたりだった。
 オランダ坂を登り、グラバー邸にあそんで、蝶々夫人のメロディをくちずさむのもいいが、歴史の裏側に触れて慄然とする旅も捨てがたい。


コメント

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です


プロフィール

星野 和彦

Kazuhiko Hoshino

1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表

作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞


カテゴリー


月別アーカイブ