一国二制度を叫ぶ玉城デニー

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「玉城デニー沖縄県知事」
 アメリカ軍水兵が沖縄進駐のおり、沖縄人女性とのあいだにつくった子供だつた。だったというのは、肝心の水兵は母子を沖縄に置いたまま、アメリカ本国へさっさと帰国してしまったからだ。戦後の内地でもこうした子供たちは数多くいた。
 その子供が成人し、政治家となったひとりが、玉城デニーという訳である。 彼は当初自民党からでて政治家となったが、県知事に出馬したころから反自民党に転じ、さらにいまでは反日政治家となってしまった。
 「沖縄の独立を認めよ。一国二制度にして沖縄の自治を認めよ」とAERAをはじめあちこちのメディアで声を上げている。
 かっての尚王家をなきものに、玉城王家を打ち立てて沖縄王になりたいのかとかんぐりたくなる。埋立て反対の勝利を笠に、沖縄自治州の独立をさけぶなど権力欲の塊かとも思われる。
 1972年の沖縄本土復帰以来、日本政府は沖縄の振興開発のためにいろいろと手をつくしてきた。沖縄博を開催して一気に観光開発を促進したり、沖縄にサミットを誘致して
首里城の再建をはたしたり、大戦末期の沖縄県民の苦労に報いるために戦跡の整備にはいちばんの手を差し伸べて敬意を表した。投資額は12兆円以上に及ぶ巨大な出金である。
にもかかわらず暗愚の宰相鳩山由紀夫の失言をたてに、基地絶対反対、アメリカ出て行けと、県民を煽っている。
 尖閣諸島を始め、沖縄までわが国の中核的領土だと発言を繰り返している中国に対して、なんの発言もなく、ひたすらアメリカ出て行けをくりかえすのは、中国の工作員
としかおもえない。地政学的に中国にたいする前線は沖縄にならざるをえない、尖閣の防衛にしろ、南シナ海の航路確保にしろ、最南端の沖縄が絶対的に重要であるということは
子供でも理解できる筈だが、玉城デニー知事には理解できないという恐ろしい日本人なのだ。
 一国二制度などというのは、中国共産党が英国の香港返還にさいして考え出したプロパカンダであり、冷戦時代の東西ドイツ一国二制度も東ドイツから西ドイツへの脱出が
止まらず、結局ベルリンの壁の崩壊をもって解決した事例がある。内地からの巨大な資金補助がなければ沖縄の自立は不可能だという現実をしらない恐るべき県知事が玉城デニーという英語の話せない日米混血の知事なのだ。


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プロフィール

星野 和彦

Kazuhiko Hoshino

1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表

作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞


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