ショパンを愛した中田喜直

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 何年振りにショパンの曲を沢山聞いた。
「水芭蕉の人・中田喜直」をテーマに真理ヨシコさんがコンサートを開くことになったので、演出のおはちが回ってきた。あれこれと話し合っているうちに、「喜直さんはとてもショパンが好きだったのよ」という幸子夫人の発言から、中田喜直作品の環境にショパンをすえてみたら、という発想になった。
 パリで一番先に尋ねたのは、ペール・ラシェーズ墓地のショパンの墓だった。
この墓地にはビゼー、ロッシーニ、ピアフ、モンタン、マリア・カラス、ベコーなど多くの音楽家がねむっているが、なかでもショパンの墓は人気が高くいつも花束の山が溢れている。ショパンの墓は等身大の女性像に守られ、ロマンを放っていた。愛人ジョルジュサンドの若き日の彫像でもあろうか。
 モンソー公園にはピアノを弾くショパンと足元で陶酔するサンドの大きな彫刻がある。すぐる年、白い彫刻のジョルジュ・サンドにアンダー・ヘアを書き込んだ大馬鹿野郎がいた。パリ市はそのヘアを消すのに300万円かかったといわれる。
 ロマン派美術館には、ショパンの繊細なピアノを弾く手に寄り添ったジョルジュ・サンドの手が並んでいる。
 ピアノの詩人と言われたショパンの旋律、美しいメロディの裏にある孤独と激情がフランス人の心を掴んではなさないのだろう。革命と戦乱をくぐってパリにたどり着いたショパンの人生に、やはり戦争を体験し瓦礫の祖国をみた中田喜直はインスパイアーしたのだろう。
 時代によって創られた音楽は、芸術家にとって共通のアイデンティティーがある。
 中田喜直の歌曲とショパンのエチュードやプレリュードの間に、全く齟齬のないことを発見し、充実した幸せの時間を過ごした。


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プロフィール

星野 和彦

Kazuhiko Hoshino

1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表

作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞


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