政界、芸能界、スポーツ界、そこには凡人には予想もつかない不思議なことが起こる。
平成最後の師走を迎え、あっけにとられたのは相撲界の出来事だった。
子供のころから「ひとり相撲」をとるなと親からいわれてきたが、まさかその相撲界で本物の「ひとり相撲」がみられるとは思わなかった。
貴乃花とその弟子たちを巡る出来事は、まさに親方のひとり相撲、そのものだった。
日馬富士による貴ノ岩に対する鉄拳制裁が勃発した時、貴乃花は相撲協会内部の組織に報告することなく、いきなり外部の警察に訴え、協会の会議ではだんまりをきめこんだ。
マスコミは一斉に貴乃花の肩をもち、協会改革のノロシであるかのごとくに協会を非難した。貴乃花はさらに内閣府にまで訴えを起こし、被害者としての立場を増幅した。
日馬富士を引退にまで追い込んだところまでは意とした通りにことは運んだが、肝心の足元に火がついた。弟子の貴公俊による暴行事件だった。親方は振り上げた拳が自分の頭におちてきた。
結局部屋の看板を下ろし、弟子たちは千賀ノ浦部屋へ引き取って貰い、貴乃花は親方を返上し、引退する破目にいたった。同時に女房との離婚というオマケまで付いてきた。
追いかけるように被害者の筈の貴ノ岩による暴行事件が勃発、彼は日馬富士に対する訴訟を取り下げ、結局貴ノ岩も引退することになった。
被害者として同情をあつめていた貴ノ岩は加害者となり、この一年に及ぶ相撲騒動は何だったのかと、相撲ファンをガッカリさせた。
貴乃花とマスコミによる劇場型騒動は、日馬富士、貴ノ岩、という逸材を失い、貴乃花自身をも相撲界から抹殺してしまった。
原因の第一は相撲界の内部で起きた事件をわざわざ警察に持ち込んで、自助努力をおこたった貴乃花のポピュリズム志向がある。
第二には自分の部屋の教育だけが正しいと信じた貴乃花の自己過信である。協会における権力だけに眼を向けて活動してきた貴乃花自身の愚かさが引き起こした「ひとり相撲」、それがブーメランのようなこの事件の本質なのだ。
コメント
プロフィール
星野 和彦
Kazuhiko Hoshino
1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表
作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞
コメントを残す