ムーランルージュの演出で渡仏するまえ、東宝から凄い新人がでる、という噂をきいた。東宝ミス・シンデレラ娘コンテストで優勝したという。なんでも神田鍛冶町の乾物屋の娘で、5人姉妹の末娘ということだった。
噂の娘は1959年に「星由里子」と名乗り、映画「すずかけの散歩道」で華々しくデビューした。
その頃渡仏準備に追われゆっくりと映画を見る間もなく、リハーサルの合間に抜け出し半分みて帰ってきたので、ズット奥歯になにかがはさまったような感じだった。
彼女の品のいい明るいイメージは、あの頃の東宝カラーにぴったりで、クセのない庶民的な美しさで人気を集めた。
帰国後、ふとしたことから彼女との縁ができた。
60分枠のドラマで、東宝制作の枠があった。そのドラマの演出に擬せられたのだ。台本とキャスティングは東宝のプロデューサーが担当し、局は演出と営業を分担するシステムだった。
配役の顔寄せではじめて噂のシンデレラに会った。主演にもかかわらずいちばん早くリハーサル場に入り、こちらが行くと立ち上がり小走りで側まできて、「おはようございます。星由里子です。」と挨拶された。さすが東宝の秘蔵っ子だけあって、しっかりと教育されてきたといった印象だった。台本もしっかりと読み込んできて、役の解釈も過不足なく演じてくれた。わがままで周りが困惑するスターもいるなかで、彼女は実に控えめで真面目に芝居をしてくれた。主演でも自己主張が強すぎると、まわりの役者たちとの和がたもてない、クセのない素直さには、大変助けられた。
その頃、六本木に役者衆の集まる寿司やがあった。仕事の終わったスターたちが、三々五々集まってくる。美空ひばりも江利チエミもカウンターで寿司をつまんでいた。その寿司やの親方から「彼女が会いたいと言っている」という伝言があった。電撃結婚といわれ初めてのオメデタがわずか3か月で破れ、傷心のときだった。
結婚相手への不満はひとこともいわず、映画の話に花が咲いた。ヨーロッパ映画のはなし、ハリウッド映画のはなし、明るく眼をキラキラさせて時を忘れた。
……京都で静かに暮らしているときいていたが、訃報はあまりにも突然だった。
八重歯のシンデレラ・星由里子への追慕
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プロフィール
星野 和彦
Kazuhiko Hoshino
1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表
作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞
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