滞仏中、いくつかの訃報に接した。
テレビ朝日(当時のNET)の始まった頃、音楽番組の演出にも多々携わった。
10代の視聴者には、ワタナベ・プロのタレントが人気があった。ザ・ピーナッツ、中尾ミエ、布施明、小柳ルミ子、梓みちよなどが中心だった。
20代になると男ではダークダックス、ボニージャックスなどが人気があり、女性歌手では水谷良重(いまの水谷八重子)、中原美沙緒、そして朝丘雪路だった。
音楽の特集番組ではこの女性3人組を軸に構成することが、多かった。水谷良重は歌い手のなかでは、群を抜いてプロポーションにすぐれ、衣裳も体の線に忠実なマーメード・ラインのイブニングをきていた。大胆にだした背中にスタジオ・カメラマンは息をのんで、焦点をあわせていた。中原美沙緒は、伯父の中原淳一が衣裳デザインをしていたので、もっぱらフレアな可愛い路線だった。
……そして朝丘雪路、いつも彼女をめぐってトラブルが起きた。
あの頃の音楽番組はまず音楽録音をして、段取りをして、本番になるという手のかかる制作工程だった。
当然のように衣裳の打ち合わせも事前にする。本番のドレスがかぶるといけないので、歌手3人を交えてドレスの打合せをする。
私は黒にするわ。私はブルー、私は赤と、それぞれのカラーも決まって、演出もほっとするのだが、当日思いがけないトラブルが発生する。
歌手のひとりに呼ばれて楽屋にいってみると、泣いている。ユキエちゃん(当時朝丘雪路はユキエと自他ともに呼んでいた) に衣裳をとられたというのだ。昨日衣裳の色について順番をきめていたのに、本番前になって私の色の衣裳を着るというのだ。
歌手同志の意地の張り合いはすさまじく、特にそうしたことでいつも台風の眼になったのが、朝丘雪路だった。
彼女のあとが出番の歌手は何時意地悪されてもいいように余分に衣裳を持ち込んでいた。
料亭の女将の妾腹に生まれた彼女は異常なまでに、「パパ伊東深水」にこだわり、後に舞踊家になっても「深水流」を名乗ったほどだった。
リハに少しでも遅れてくると、いきなり演出の手を豊満な胸にもっていき、「ほらドキドキしているでしょ、ユキエ一生懸命走ってきたの。ごめんなさーい」
身についた魔性とでもいうべきか。生涯電車の切符は買えなかったといわれるが、どこか無理を重ねた女が見え隠れした。コンプレックスと意地と見栄に疲れた一生だったと思っている。 合掌
魔性の女・朝丘雪路
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プロフィール
星野 和彦
Kazuhiko Hoshino
1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表
作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞
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