パリ左岸にあるルクサンブルグ公園の元老院の近くにある「フェルー通り」、わずか200メートル程の小路だが、この小路について書かねばならない。車は一方通行しかできない狭い道だが、その東側の壁面はランボーの詩で覆われている。
ランボー16才の時に、ベルレーヌのもとに持参した処女作である。「酔いどれ船」と題された12音節4行からなる100行の長編詩、それが 5メートル程の高さの塀、100メートルの長さに堂々と書かれている。これほどのスケールで詩が書かれている都市の風景は見たことがない。
数年前、鈴木京香がこの壁のまえで撮影したことがある。肌を透かしたレース使いのワンピースを着ていた。彼女のボディ・ラインが美しく浮かんだ写真は、かなり蠱惑的な傑作だったが、彼女が、背景にある詩の意味を理解していたとは考えにくい表情をたたえていた。
ランボーの傑作はただのファッションの小道具と化して、泣いているようにも見えた。
3年ほど前、パリで女優をしている某女との撮影行でも、この壁のことが気になり探したのだが、情報が少ないとあっさり拒否されてしまった。今度のパリ行きでようやく巡り合えたランボーの壁詩には、感動的な出会いがあった。
72日間の短命に終わったパリ・コミューンの運動はフランス人の魂に埋め込まれた歴史なのだが、17才のパリジェンヌが、日本人から初めて尋ねられた詩壁に喜んで連れて行ってくれた。彼女は毎年パリコミューンの記念日に、追い詰められたペール・ラシエーズの墓地と、このランボーの詩壁を訪れるという。歴史と向かい合う優しいパリジェンヌを通して、日本の若者たちのことを想わざるをえなかった。
ランボーは16才にしてパリコミューンの挫折と人生の挫折について、都市文明への降伏について、この詩を書いた。目の前のカフェに座って詩壁と対峙していると、目の前にはいま人生に漕ぎ出そうとしているカップルから、生きることに疲れてしまった老夫婦まで次々と通り過ぎて金縛りに会ってしまうのだ。
ベーゼの壁や、16区のアールヌーボー建築ギマールの作品から得られない人間の叫びが聴こえてくる。
聡明な鈴木京香がもう一度このランボーの詩壁に立ったら、どんなポーズで写真をとったか、想像は無駄働きか。
フェルー通りの「酔いどれ船」
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プロフィール
星野 和彦
Kazuhiko Hoshino
1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表
作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞
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