少年期「地下鉄」ときくとワクワクした。
国鉄(いまのJR)は、どことなく事務的であったし、遠くに行かねばならないその為に乗るといった目的感が大きくて子供心に夢がなかった。路面電車はそこらじゅうを走っていて、生活感にあふれていた。本郷からは路面電車を乗り換えてあちこちへいった。
当時路面電車というような科学的な呼称は使わなかった。すべてチンチン電車だった。停留所についたとき、出発するとき、車掌さんが紐を引っ張ると、運転席の後ろに取り付けられていた鐘がチン、またはチンチンとなって乗客をうながした。あの鐘のチンからチンチン電車は生まれたと信じている。
地下鉄銀座線には「三越前駅」があった。デパートの名前がそのまま駅名になっている珍しい駅だ。そのうえ三越本店と直結していた。いまでは地下道が網の目のように走り、デパート直結など珍しくもないが、当時は画期的だった。地下鉄から三越へ入る入口には沿線随一のゴージャスなステンドガラスによる駅名板があった。今でもあるかもしれないが、子供心にこんなに贅沢な駅看板をみたことがなく、アールヌーボー風な三越前駅の看板のまえでしばし見とれていたことを覚えている。
「今日は帝劇、明日は三越」とうたわれた時代だから、デパートはディズニーランドより、ユニバーサル・スタディオよりも夢のいっぱいつまったワンダーランドだった。
地下鉄銀座線には、上野広小路駅(松坂屋前)や、日本橋駅(高島屋前)という駅もあったし、終点浅草は松屋前だった。銀座線はデパート全盛期に主なデパートをつないでできたレジャーラインだったともいえよう。
三越前駅はそっくり三越がお金を出して作ったので、そのまま三越前駅になったと後年しらされた。それに引き換えカッコ松坂屋前や、カッコ高島屋前は、地下鉄の情報サービスだったのだ。
デパートの屋上には飛行船やら、滑り台、動くお馬、小さな舞台では人形劇もやっていた。日曜日にデパートの屋上で遊ぶというのは、下町の子供たちにとって憧れの時間だったし、お腹がすいたら下の大食堂で小さな旗の立ったお子様ランチを食べるというのが、幸せの日曜日だった。
いまでは信じられない「三越前駅」
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プロフィール
星野 和彦
Kazuhiko Hoshino
1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表
作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞
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