平昌五輪の収穫といえば、間違いなく「羽生結弦」と「小平奈緒」ではなかろうか。
この二人にみる人柄と、内在するスポーツとの距離は実に素晴らしかった。自己顕示欲のかたまりのような選手が圧倒的に多いなかで、この二人の謙虚さには清々しさを覚えた。
いままでの大会で、メタルをかじったり、テレビカメラに向かってヴイ・サインをしたり、スポーツ選手のふるまいにはうんざりしていたが、今回はちがった。ようやく大人のボンサンスを身につけた選手がでてきたという思いだ。
決して表にでない両親、祖母、叔母たち皆が「頑張っているのは本人です。親がしゃしゃりでて話すことはなにもありません」かって当然のようにそうであった家族の考え方が何時の間にか、家族みんなでというファミリー主義に対して、羽生結弦の両親は見事にくつがえしてくれた。
ネットではいかにも東北人気質などといっているが、第二次世界大戦にまけるまでは、東京下町の家庭でさえ、息子の合格やスポーツ記録に親が出てきてシタリ顔をさらすことはなかった。子供は子供、親は親という個の確立ができていた。中学校の入学や東大の入学式に親がチャラチャラと出てくるようなことはなかったのだ。
「自分の敵は自分です。僕は羽生結弦以上でもなければ、それ以下でもありません」
中学校の教員である父も母も東北大震災で家を失い、仮設住宅暮らしから家賃5万円のつましい借家にうつり、金メダル後はマスコミが殺到するので、ようやく市内のマンションに移ったという生活態度からも、人柄の謙虚さが伝わってくる。
マスコミのインタビューに「スイマセン、この国旗を持っていてください」日本の国旗を下においてはならない、という彼の意識に一瞬意味の分からなかった女子アナがいたというから困ったことだ。
小平菜緒も父から「人から簡単に教わるのではなく、大切なことは自分で発見しなさい」「見て、考えて、自分のものにする、それが基本だ」としばしば言われたといっているが、この親にしてこの子ありということだろう。
三人姉妹の末っ子とあれば、イージーに流れそうだが、そうした教育環境のなかから鬼かわいい「怒った猫」が生まれた。
銀しか取れなかった韓国のアスリートに声をかけ、二人で抱き合って喜んだ姿が忘れられない。
羽生結弦と小平菜緒
コメント
1件のフィードバック
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子供の頃の日本選手は
国際舞台で緊張のあまり実力さえ出せずに参加することだけに意義があった感じで…
最近は自分との戦いに挑んでいく選手ばかりで感心するばかりです
そして結果が伴うところが素晴らしいです
生きているうちに日本選手が活躍するなんて
優勝を狙うなんて期待していなかったのにおどろきです
そしてどこに出しても恥ずかしくない人を目にする快感にウットリしますね。
巷にはそうでない存在が多すぎて
外に出るのが怖いですから
プロフィール
星野 和彦
Kazuhiko Hoshino
1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表
作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞
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