青梅に残った最後の映画看板

by

in

青梅に残った最後の映画看板
 奥多摩の青梅という街はおもしろい。
 昭和がいっぱいに詰まっている。JRの青梅駅に降り立てば、まず懐かしの映画看板が出迎えてくれる。町を歩けば原節子に会えるし、笠智衆にもあえる。そのうえジョン・ウエインにもオードリー・ヘップバーンにも会えるのだ。
 映画看板が、青梅の街の顔になっている。いまではほとんど見なくなっている映画看板だが、昭和の街を彩ったのは、一週間ごとに変わるあの泥絵具で描かれたドギツイ映画看板だった。焼跡の荒廃した銀座に「カルメン故郷にかえる」の踊る高峰秀子の看板を仰いだ時の感動は忘れたことがない。
 東京物語、花の兄弟、黄金仮面、キリマンジャロの雪、明日に向かって撃て、市民ケーン、ローマの休日、黄金仮面、いづみ・ひばり・チエミのジャンケン娘等々、とても似ているのもあれば、少し微妙な看板もあってとにかく楽しい。
 この街には赤塚不二夫会館から昭和レトロ博物館、昭和幻灯館までそろっている。昭和をテーマに卒論を書く学生にとっては、青梅はこのうえなく有難い街に違いない。
 この青梅の街の景観を作った最後の映画看板師久保板観さんが、去る2月4日亡くなられた。泥絵具をニカワで溶いて、盛り込むように描いたあのテクニックを継承する人は、もうひとりも居なくなってしまった。
 商店街を歩きながら、板観さんは「ここは俺の画廊なんだ」といっていたそうだが、日本中から商店街が姿をけし、映画館も無くなって、さぞや寂しい気持ちで、あの世に旅立たれたことだろう。


コメント

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です


プロフィール

星野 和彦

Kazuhiko Hoshino

1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表

作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞


カテゴリー


月別アーカイブ