日劇に始まった戦後レビューの足跡

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日劇に始まった戦後レビューの足跡
 いよいよ日劇が閉館することになった、とメディアが騒いでいる。
 が日劇を愛していた人間にとっては、すでにいちど日劇は死んでいる。レビューの上演可能な舞台を棄て、映画専門になったとき、かっての名門日劇は死んだのだ。
 故秦豊吉によって日劇民族舞踊研究所が造られ、日劇ダンシングチームが誕生し、和製レビューの産声をあげたことから、日劇の栄光の歴史は始まった。
 すでに宝塚歌劇団と松竹歌劇団は存在したが、いずれも女性オンリーの構成で、男女がともにおなじ舞台にたつレビュー・チームはなかった。第二次世界大戦後、戦いに敗れて日本人は初めて男と女がともに踊る舞台をみれるようになった。それこそが日劇の栄光ある歴史の始まりだった。
 支配人であり、プロデューサーだった秦豊吉は、世界のあらゆる踊り、民族舞踊からアメリカのショウ・ビジネス、はてはクラシック・バレエまで、あらゆる踊りを日劇の舞台にのせた。戦後の貧しさから抜け切れていなかった日本人にとって日劇のレビュウは、想像の世界への旅であり、未知なる世界への探検だった。海外旅行の出来なかった当時、人々は夢のハワイやパリのカンカンを日劇の舞台にみた。
 日本人の体格も劣り、貧しい舞台衣装に身を包んで踊っていたあの頃の舞台は決してレベルの高いものではなかったが、それでも観客は興奮して拍手を送った。
 灰田勝彦、轟ゆきこ、高峰秀子、のスター達から、裕次郎と結婚した北原美枝、日活スターに
なった笹森礼子、ブギで旋風を巻き起こした笠置シズ子も舞台を走り唄い踊っていた。朱里みさおが、ウェストサイドストーリーの衝撃を初めて日本に持ち込んだのも、日劇だった。
 日劇のステージが大きく変わったのは、渡辺美佐によるウエスタン・カーニバルだった。いらいロックのメッカとなり、踊りの日劇から遠ざかっていったのだ。
 気が付いたら日劇は映画館となり、ショービジネスのリストから消されていた。


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プロフィール

星野 和彦

Kazuhiko Hoshino

1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表

作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞


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