歳の暮れもせまり、あちこちで今年の墓碑銘を報じている。我が身を顧みず今年の私的墓碑銘を記してみる。
演出を生業としてきた身として、鈴木清順の死は悲しかった。映像演出の師でもあった。
絶望的なシチュエーションのなかで描く華やかな映像美は、他の追随を許さなかった。あえてあげれば、市川崑の美意識に迫る唯一の才能だつたともいえる。
近頃の日本映画の貧困さにますます竿さしてしまう痛恨事が、鈴木清順の死だった。
野際陽子さんの死も悲しかった。立教女学院時代の清楚で知的な若さを思い出す。
いまのJKには全くと言っていいほどなくなってしまった規律のある美しさに満ちていた。バザーの時も、礼拝のクワイアーでも、真剣に美しかった。
NHKのアナウンサーとしてもいつも向学心を秘め、ひたむきな姿勢で仕事をしていた。早々にNHKを止め、留学したときもさもありなんと納得させてくれた。
媚びない姿勢でもくもくと仕事をしてきた野際陽子さんの死を悼む。
はしだ のりひこも長い間パーキンソン病を患って人前に出ることはなかった。
彼とは「帰ってきたヨッパライ」のころからの付合いだった。同志社大学の神学部をでた彼は、いわゆる芸能人とは全くことなる雰囲気をもっていた。
フォーク・クルセダーズのあと、シューベルトでは「風」という名曲を作り、その後クライマックスでは「花嫁」を、エンドレスでは「嫁ぐ日」をと、グループの解散、結成ごとにいい曲をつくり、産み落としてきた。 「星野さん、一緒にカモガワ大音楽会をやろうよ」何度かの彼のプロポーズに結局答えられなかったが、はしだのりひこの魅力は心に焼き付いている。
京都フォークのエースであり、レジェンドだった。鴨川のユリカモメを見ながら、語り合った時間は遠くへ行ってしまった。 合掌
私的墓碑銘/鈴木清順・野際陽子・はしだのりひこ
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プロフィール
星野 和彦
Kazuhiko Hoshino
1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表
作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞
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