20年前の長野オリンピック以来、町のスポーツと言い続けて、大変な税金をつぎ込んできた。
カーリングのこと。軽井沢のカーリングもようやく芽が出かかって、オリンピックへ行くところまで成長してきた。この20年支え続けてきたコーチの長岡はとみさんを始め、ご主人、西山、早野、尾崎さんらSCの皆さんの努力はさぞや大変だったことだろう。
当初挨拶ひとつ満足にできなかった選手たちに、よく我慢してここまで付き合ってきたものだと感服のほかない。巷間スポーツ馬鹿とよくいわれるが、まったくスポーツのこと以外なにもわからず、態度だけが一流というスポーツ選手にまま出会うことがある。常識をわきまえたら、いい歳をして日々レッスンずけの暮らしはできないのかもしれない。
町民みんなの税金で、立派なホールもできた。スタッフの協力で国際大会も開かれるようになった。
チーム競技の名の元に、能力が落ちてもずっと選手でいられる。カーリングだけは別だから、という理屈には無理がある。チーム・スポーツは多々あるが、能力が落ちてきたらどんどん入れ替える。後輩の能力を育てるのも、スポーツの役目だ。頂点を極めて後輩に席をゆずるというのも、スポーツの美点のような気がする。
堀辰雄の樹下で有名な追分泉洞寺に、ある時カーリング地蔵が建立された。
カーリングという横文字スポーツと地蔵信仰にはどこか無理矢理の感もあったが、それほど檀家さんたちの興味があるということだろうと、得心していた。
先日友人とともに、泉洞寺を尋ねた。友人は堀辰雄の同性愛への傾斜のなかでの文学について興味をもっていた。ふとカーリング地蔵に眼をやると、その隣に卓球地蔵が新しさを誇っている。卓球も近頃では、温泉場のピンポンから中国打倒のピンポンに変身して大変な人気だ。
樹下の歯痛地蔵どころか、インスタ映えのピンポン地蔵やら、カーリング地蔵でちかごろの若者はシャメするのだそうだ。 お寺さんの有難みもどことなく薄れ、堀辰雄も遠くなったと追分に別れをつげた。
軽井沢のカーリング……20年
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プロフィール
星野 和彦
Kazuhiko Hoshino
1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表
作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞
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