浅草仲見世は文化財である。

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浅草仲見世は文化財である。
 赤門から入って三四郎池にいたり、さらに東大校内を抜け、池之端を回り、西郷どんの銅像を左に見上げて道具街から雷門に着く。そこで交番のお巡りさんにつかまり拘束されてしまった。本郷西片町に住んでいた満五歳の筆者の一人旅体験である。幼心に雷門から仲見世の印象が、それほどに大きかったということだろう。
 あの頃の浅草は、東京の中心だった。大人になったら銀座にいく。子供のうちは浅草、それも雷門から
浅草寺本堂に向かう両側の仲見世だった。仲見世にはお面も売っていたし、人形焼もあった。女将さんの日本髪やちょんまげを並べていた店もあったし、一日中香ばしい香りを漂わせてせんべえを焼いているお店もあった。おこし、今川焼、日めくり、占い、江戸の昔の商い模型、すべてがあった江戸下町のワンダーランドだった。
 その浅草仲見世が存亡の危機に見舞われている。このたび仲見世は東京都から浅草寺が買い取ったので、家賃を16倍に上げさせていただくというという通知だ。
 89店の家賃はいままで、月平均2万3千円と破格の安さだった。だからこそ江戸以来の利の薄い小商いがしてこれた。東京にあるただひとつの門前市であり、寺社と商いの結びつきを目の当たりにできるただひとつの商店街だった。
 16倍の家賃値上げを致し方ないとする人もいるかもしれないが、仲見世は浅草寺ご本尊とおなじ、有形文化財でもある。だからこそ外人観光客も訪れるし、修学旅行もみなやってくる。なるほどニホンの商いはこんな風なやり方だったんだ。日本中どこにでも同じスタイルで展開しているチェーン店とはまるでちがう。人と人が向かいあって商いをするとはこういうもの、という生きた教材になっていた。
 東京都は簡単に89店舗を2000万円で払い下げてしまったが、オリンピックを前に、こんな大事な施設をウッパラッタとは、信じられない。
 希望の党などつくって己の野望を満足させるより、はるかに重要な案件である。もしも仲見世がスタバだったり、シマムラだったり、牛丼、ラーメンやに占拠されたらまったく仲見世の魅力はなくなってしまう。東京の観光資源が無くなってしまう、という重大案件なのだ。
 豊洲のつめの垢ほどで維持できる仲見世は是非守って欲しい、このことが理解できない小池百合子知事であれば、それこそ排除しなければならない。


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プロフィール

星野 和彦

Kazuhiko Hoshino

1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表

作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞


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