今日は山の日だと、新聞もテレビもざわついている。
私にとっての初めての山を思い出してみた。小学校3年の時の遠足が、高尾山だった。山と名の付く高みの初体験だった。遠足の前の日、先生から高尾山についての授業があったが、高さは海抜何メートル、植生は何の木、東京では一番高い山であるとか、授業のつまらなさだけを覚えている。
結局、高尾山の思い出は、ケーブルカーと山頂の天狗さまだけだった。
次に山を意識したのは、御多分にもれず富士山だった。
中学一年、富士の裾野の滝ケ原というところに連れていかれた。一週間の軍事教練、手はかじかみ、耳はちぎれそうな寒風のなかほふく前進やら、突撃訓練を受けた。夜は馬小屋のような質素な兵舎に寝かされ、皇国の興廃は君たちの双肩にありと、朝の5時に起床ラッパに起こされた。毛布は重箱のように四角くたためと、下士官から怒られた。富士山は吹雪の向こうにかすかに浮かんでいた。
敗戦のあくる年、単身富士登山に挑んだ。吉田口の浅間神社にお参りしその脇道から登山の一歩をふみだした。五合目辺りまで登った時、河口湖から花火が揚がって、はるか下界の花火に感動した。八合目の山小屋でありついた味噌汁は命の水だった。最後の九合目をすぎ頂上が見えてからが苦しかった。なんとかご来光に間に合いたい一心でやっと登頂に成功した。六根清浄。帰りは須走口を飛ぶように駆け下り、麓の小学校の水道をかぶつて富士山の砂を落として帰京したのだった。
出羽三山では、この国の山岳信仰について学んだ。木曽御嶽の八丁ダルミでは、御嶽教のまつりを撮影した。上高地には青春があった。嘉門次小屋の徳利はいまでも飾っている。木曽駒ケ岳の千畳敷はミュージカルの中休みだつた。桜の素晴らしさは吉野山に見た。吉野郡吉野村大字吉野字吉野旅館吉野の吉野の間から見た、下千本中千本上千本の吉野桜は奇蹟の景色だった。
ブータンの首都ティンプーからみた白いヒマラヤの峰々は、神々しく身が引き締まった。
軽井沢の自宅では浅間山を背に、左に妙義連山、正面に八ヶ岳、蓼科山、時々富士山、そして右に北アルプスと山との日々を暮らしている。
山との日々を暮らす
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プロフィール
星野 和彦
Kazuhiko Hoshino
1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表
作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞
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