かつて市川は別荘地だつた。都心や下町の富豪にとって市川に別荘をもつというのは、ステータスだつた。
永井荷風も幸田露伴も北原白秋も、そして東山魁夷も市川に住んでいた。江戸川を超えると、上から読んで市川市、下から読んでも市川市についた。市川市の鳥はうぐいすだし、市川市の虫はスズムシ、ときいても情緒豊かな町が想像できる。市川には数多くの思い出がある。
二十歳のとし、初めて映画をつくったのは市川だった。当時の毎日新聞が「この子らに光を」という特集連載で注目を浴びた。市川にある知的障害児施設八幡学園がその舞台、そこにいた「山下清」という知的障害児にスポットが当たった。
山下清はふらりと旅にでて、何か月もたってふらりと学園に戻ってくる。旅の思い出を貼り絵にした。この貼り絵が素晴らしかった。その山下清の初めての学園脱走から、透明純粋な絵作りにいたる清の心の旅を映画化したのだ。清を演じたのは、若かりしころの唐十郎、本名大鶴義英だった。彼には清に通じる不器用な個性があった。文部省特選をえ全国の学校や図書館に200本のプリントが売れた。
記憶は定かではないが、昭和26年か27年のことだった。ロケ隊は中山法華経寺の門前に宿をとり、たまに境内を散歩した。法華経寺の清冽な空気がいまでも印象にのこっている。そのとき万葉集にでてくる絶世の美少女手児奈姫誕生の地が市川ということを知った。のちに山下清を素材にした映画は、数多く作られた。
市川発祥の山崎パン創立何周年かの総合イベントの演出をしたこともあった。戦後食糧難の時代、「粉を持って行けばパンにしてくれた」山崎誕生ものがたりは何度聞いて涙がでた。
そして天才美容デザイナー石渡潔との60年にわたる関わりも、私の人生にとっては貴重な時だった。
前衛美術家井上洋介も市川だったし、お嬢さんも健在だ。
テレビ創生期に世話になった丸山一昭氏に京成市川に近い喫茶につれていかれた。昭和の匂いがしみこんだカウンター喫茶だった。かって仕事をしてきた老人たちにやすらぎを与えてくれていた。モガの雰囲気のママがひとり、狭い店に花をいけ、客との会話を楽しみながら、美味いサンドイッチを作ってくれた。スタバやドトールでは決して味わえない豊穣な時間が流れていた。プチ・ニコラと小さな看板がでていた。
市川に想うこと
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プロフィール
星野 和彦
Kazuhiko Hoshino
1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表
作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞
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