祇園の「冨美代」200年を祝う

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祇園の「冨美代」200年を祝う
 四条通りをまっすぐ八坂神社に向かっていくと、やがて右側に一力さんの紅殻塀が見えてくる。花見小路と呼ばれているその路地をまがれば、一力、廣島屋、多麻さんはじめ多くのお茶屋さんがある。いわゆる祇園町南側と呼ばれている地域だ。
 四条通りを挟んで反対側は祇園町北側である。そこには祇園のロケに必ず登場する辰巳稲荷や、家元井上八千代師の教場がある。南の一力亭にたいして北の大店といえば冨美代さんである。富永町にどうどうとした店構えでその暖簾の立派さに、花街しらずのお上りさんでもただならぬ風情をよみとる。
 現在祇園町を束ねる総務さんは、冨美代の女将八代目太田紀美さんである。かってイギリスのバージン航空のモデルに引っ張り出されたこともある、いかにも祇園の女将らしい知性と美貌にはんなりがつく熟女なのだ。
 その冨美代さんが創業200年を迎えた。東京では200年はほとんど考えられないが、京都ではそんなに珍しいことではない。なにしろ日頃1000年の都というのが口癖になっている町なので、200年といってそんなに晴れがましいことではない。
 冨美代の女将太田紀美さんは、今風な配りものをするより、創業150年のときに七代目の先代が配った祇園研究家熊谷康次郎さんのつづりを復刻しようと思いついた。どうぞこの文章に、五十を足してよんでいただければうれしゅうございます、とある。
 祇園のお茶屋は一現の客は相手にしない。宿坊としょうして行きつけの家はがきまっている。そこは店の延長であり、接待所である。お客の種類にしたがって程度を心得たものである。お茶屋は御店やお客のためを思うて無駄を戒めて、臨機応変である。そして家庭とも往来して奥様ともすぐ心安くなる。春の都をどり、秋の温習会、諸々の舞の会、顔見世などの切符の世話から、弁当の世話まで、おちょぼや仲居が付き切りでする。こうしてお得意と御茶屋の関係は幾年も幾代もつづくのが例である。またこうした御得意を数軒守ってしく尻さえせねば御茶屋の方も幾代でも伝統を守ってつづくのである。
 これが祇園の御茶屋の昔からのあり方である。ひょつとしたら、冨美代のことを語っていられるのではないかと錯覚するぐらい、余りにも冨美代にびったり当てはまる。冨美代はこんな御茶屋である。


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プロフィール

星野 和彦

Kazuhiko Hoshino

1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表

作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞


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