真子さま・菊川怜・神田沙也加・阿川佐和子・いずれ時がきましたら…

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真子さま・菊川怜・神田沙也加・阿川佐和子・いずれ時がきましたら… 真子さま・菊川怜・神田沙也加・阿川佐和子・いずれ時がきましたら…
 5月になっていろいろの結婚報道の洪水に、真打が登場した。
「いずれ時がきましたときにお答えさせていただきます」「それも時がきましたら」「それも時がきましたら」さぞや厳重に口止めされていることと推察できる秋篠宮真子さまと小室圭の「時がきましたら婚」、日本国民の大好きな皇室の慶事である。
 直近には、フジテレビの朝のキャスター、少しゆるい東大出の菊川怜(39歳)の結婚が報じられた。相手はその道で著名なIT企業家、カカク・ドットコムやらクックパッド社長の穐田誉輝氏(48歳)、なるほど流行の金持ち婚と思われたが、穐田氏側の過剰な情報統制に反発した群小メディアからつぎつぎとスキャンダルが報じられた。同棲、重婚のすえ3人の婚外子がいるという現実、さらに4人目の子供もみつかったという事実、とんでもないIT長者だったという報道だ。
 新郎は「みんなのウェディング」会長でもあり、冷静にかんがえるとただの淫行常習犯だったというお話、番組上に露呈している菊川怜のゆるさに輪をかけた結婚話だった。
 その少し前に報じられたのは、神田正輝と松田聖子の娘、神田沙也加と村田充の結婚報道。神田正輝は素直におめでとうといったようだが、母聖子は許さなかった。聖子の男性趣味とあまりにも離れていたと週刊誌に書かれている。
 なにしろ日本の歌謡界で聖子ほど男を渡り歩いた例はない。生まれ変わったら一緒になろうと誓った郷ひろみに始まり、真田広之、近藤真彦、そして沙也加という子をなした神田正輝、マネージャーのK氏から、ビビビときた歯医者の波多野浩之、アメリカでの乱脈ぶりを手記でばらされたジェフ・ニコル、アランリードと華麗な性欲主義者の道を歩いてきた。こうした母の背を見て育った沙也加は、まったく反対のBilly、小池徹平、田代万里生、山崎育三郎と渡り歩き、母と娘は真逆な男性観をもってこんにちに至ったのだ。
 そこに今更婚ともいうべき、阿川佐和子の結婚報道が飛び込んできた。……もし街中で私たち二人が手に手を取って歩いている姿を見つけても、「ヨッ新婚メ!」などとからかわないでくださいませ。手を繋いでいるのは、時空を超えた愛ゆえ、すなわち、互いに転ばないためなのですから。
 阿川佐和子63歳、お相手69歳 お見事な熟年婚である。
 あれもこれも、「いずれ時がきましたら」の皇室婚ですべて吹っ飛んでしまった。


コメント

1件のフィードバック

  1. 「黒田さん」に続いて
    今回の「小室さん」もお目にかかった後の皇室とのご縁で
    不思議な感じがいた祖ます。
    「黒田さん」は私がプッシュしたから
    ご成婚したんだと思ってます!
    しかし、深窓のご令嬢と自らのまなこの違いに
    反省しきりです(笑

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プロフィール

星野 和彦

Kazuhiko Hoshino

1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表

作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞


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