「テレビを今のような下らないものにしたのは、テレビ局そのものだからだ」といって、親友のテレビ・ディレクターの入居を拒否する豪華な老人ホーム、それが「やすらぎの郷」と称する老人ホームだ。
作家倉本聰の怨念がそこにこもっているといわれるが、はたしてそうだろうか。
テレビというメディアは初めからいささかの皮肉をこめて電気紙芝居と呼ばれてきた。当初こそもの珍しさも加わって、報道をはじめ教養、娯楽、スポーツあらゆるジャンルからテレビに乱入した。
伝統ある映画界の眼は、テレビを軽蔑することから始まった。民放が始まった頃、映画スターとよばれた俳優たちはテレビにはでない、というプライドに支えられていた。が始まって5年もたたないうちに、日本映画界始まって一世紀分のギャランティが俳優に支払われた。その頃から、映画スター達はぞくぞくとテレビに出演するようになった。
筆者も石原裕次郎初めてのテレビ出演の演出をし、森繁久彌テレビ出演の演出もした。もうそのころにはテレビを見下すどころか、なんとかテレビから多くの金品をえようと、日本映画界はテレビのハイエナになっていたのだ。
今日、日本映画の宣伝といえばほぼ90パーセントが、あれほど軽蔑していたテレビでのタイアップ宣伝になってしまった。製作委員会という製作システムでも、テレビ局を如何にとりこむか、その一点こそが映画製作の成否をきめている。
流行りの番宣でも、プログラムの内容にそぐわない俳優がゲストで登場すると、きまって映画の宣伝である。
番宣なれした視聴者にすべてを見透かされ、さっさとテレビは消されてしまう。テレビの没落も始まっているのだ。
こうしたテレビの終わりを招いた責任の一端には、利益一辺倒の資本に大きな責任はあるものの、テレビ・メディアに食いついて、視聴者に媚びた脚本を書き続けた脚本家にも責任の一端はある。殺人ドラマばかりにしてしまったのは、文芸ドラマや恋愛ドラマを大衆から遊離したストーリー仕立てにして、茶の間に相手にされなくなった脚本家達に大きな責任がある。
そもそも昔芸能界で名をなした老醜の女優や男優が集まった環境に興味をもつ視聴者はまずいない。そこには気持ち悪いメークと、大時代な演技ばかりが目立つ化け物屋敷があるだけだ。そのテレビ人専用老人ホームで昔風ソープオペラのような事件がおこっても誰も興味をもたない。ましてやかっての芸能プロダクションの金持ちがつくった贅沢な施設とあれば、ますます反感を呼ぶだけである。
倉本聰も焼きが回って、世間が見えなくなっているとしか思えない。
「やすらぎの郷」ではなく「やすらげない郷」なのだ。
カン違いの「やすらぎの郷」
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プロフィール
星野 和彦
Kazuhiko Hoshino
1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表
作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞
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